最後はジャクリーヌ・ウィルソンで駆け抜けるように200万語を通過!
「多読」って結局、「読みたい本」「好きな本」との「出会い」なのかも…。そして、その「出会い」は、こつこつ読み続けている途中に「自然に」訪れる。 ジャクリーヌ・ウィルソンの名前もきっとこれまでも何度もSSSのHPで見ていたのだと思う。でも、「時期が来るまで」は彼女の作品に出会えなかった…・。
やはり、その時の語数に応じた「アンテナ」の力というか、周波数というか、そういうのがあるように思う。「100万語未満」の時にはやはり「100万語超」の人たちが互いに推薦し合う本には反応できない…というか。その意味でSSSの掲示板で自分と同じくらいの語数の人のカキコミを読むのはとても参考になる。
あと、SSSの書評やら、色々なブックリストも。SSSのHPはディープなのでまだ探索しきれていないのだけれど、あちこちに色々な情報が詰まっていて、ふらふら歩いていると「あらま!」というような情報に出会って、そこから自分の「多読」の「道」が開けていくことがある。
ジャクリーヌ・ウィルソンの本は面白い。イギリス好きの私としては、色々イギリスの状況が分かってためになる。児童書だし、ティーン向けなので、多分日本で言えば「びみょう」みたいな表現も入ってるんだろう。だから、知らない表現もいっぱいあるんだけど。
面白くて、読みやすくて、切なくて、でも救いもあって、読後「暗く重い気持ち」にはならないんだけど、人生というのは誰にとっても生き難いものなのかも…と思わせる。読みながら色々と人生について考えさせられてしまう。
67.2004年1月5日: Double Act:児童書:レベル5:☆☆☆☆☆:34000語:981273
語: これも切ない…。子どもも自分のさまざまな感情の間で揺れる。ついつい言いたいことが言えなかったり、不安になったり、意地悪いこと考えてしまったり、嫉妬しちゃったり…。
主人公は双子ちゃん。母を病気でなくし、父親と母方の祖母と「新しい家族」として暮らしていたのですが、そこに、父のガールフレンドが登場!
イギリスでは離婚・再婚は日常茶飯事で、息子が通っていた保育園でも、「ファミリー」という絵が貼ってあって、そこには「ステップ・マザー」とか「ステップ・ファザー」とか、そういうのもごくごく自然に配置してあったように記憶しています。
Qを連れてよく行った私立図書館の児童書のコーナーで見た「家族」というような本でも、「あなたの両親が離婚することああるかもしれない。人は愛し合っても、途中でもう愛し合えなくなることもある。でも、それでもあなたの両親はいつまでもあなたの両親だ」とか、「あなたのお母さんに新しいパートナーが出来るかもしれない。人を愛することはとても素晴らしいことだ。そのパートナーはあなたのことも愛してくれるだろう。あなたのお父さんももちろんあなたのことを愛し続けている。あなたを愛してくれる人が増えるのは素晴らしいことだ」とか、そんなようなことが書いてあって、「離婚再婚をネガティブにとらえないように、小さい頃から教育されるんだなぁ」なんて思っていました。
でも、やっぱり、子どもは新しいパートナーを前に「違った人」みたになっちゃった父親を見るのはいやなのね。やっぱり、子どもの人生だって「きれいごと」じゃすまないのね。…という訳で、この双子ちゃんは、父親にも、父親のガールフレンドにも冷たい態度を取り続けます。
生きていくってビターだ…。私も未だに自己肯定と自己否定の間を揺れながら生きているけれど、結局、大人も子どもも一生、ネガティブな感情にしばしば翻弄されながら生き続けるしかないのかも…。
68.2005年1月7日: The Worry Website: 児童書:レベル5:20000語:101273語:
☆☆☆☆☆:スピード先生は、サークル・タイム(>ホームルームみたいなもの?
でも丸くなって話すみたい)にみんなの悩みをみんなで解決する時間を設けていたのだけれど、でも、「おねしょが治らなくて」というのを正直にみんなの前で発表したウィリーはそのあとずっとからかわれることになってしまった。最近の小学生はIT能力も高いから、みんなが匿名で悩みを書き込み、それにまたみんなが匿名でアドバイスをするという、そういうサイトを先生は立ち上げた。色々な子どもが色々な悩みを書く。で、先生は「匿名で」のはずなのに、何故か誰が書いたか分かってしまって、こっそりとその悩みの解決のために力を貸してくれる。
この話の一部は、実はネットで読めるようになってたらしく、著者は、子どもたちに「自分たちで同じ形式でお話を作ってごらん」というのをやった。そしたら15000も応募があって、とても優れた作品もいっぱいあったそうだ。そのうちの一つが採用されて、この本の中には収められている。それは、とてもリアルででもとても辛い話だ。その子は自分の悩みを書こうかな…と画面に向かう。でも、「本当の悩み」じゃなくて「にきびが出来はじめちゃったの」みたいなことを書く。彼女の「本当の悩み」は、父親の母親に対するDVだ。昔は良い父親だったんだけど、仕事を変わったのを機に父親も変わってしまう。最後その子は「結局のところ、他人には知られたくないことってあるのだ」と、話を締めくくる。
この話を書いた子の文章力は子どもとは思えないほどすごい。主人公の苦しさが切々と伝わってくる。
ジャクリーヌ・ウィルソンは、この話の主人公を登場させ、最後にもう一つ話を加えている。この話の主人公と障害を持つ女の子の友情の物語だ。
日本の児童文学も優れたものがたくさんある。だけど、日本の児童文学ってもっと「きれい」な気がする。イギリスの児童文学は、「今」「現在」「子どもたちが苦しんでいる(かもしれない)状況」を、リアルに描く。子どもたちの中にある「いやな自分」もリアルに描く。大人たちの「いたらなさ」もリアルに書く。そういう「現実」が子ども向けのものに描かれている時、同じようなことに悩んでいる子たちは、「あぁ、自分だけじゃないんだ」と思ったりするかもしれないし、そういう物語の中で何らかの「救い」が示される時に読者が感じる「カタルシス」は、きれいな夢物語を読んで辛い現実から一時遊離した「カタルシス」とは異質なもののように思う。もちろん、きれいな物語はそれはそれとして子どもにとても必要なものだけど。
彼女の作品を読むと、子どもの頃の自分や、子どもの頃から成長してない自分についても思い出したり、考えたりさせられるけど、「大人として」自分はどういうふうに我が子に向き合えばいいのか、子ども世代と向き合えばいいのか…そういうことも考えさせられる。