英語快読300万語 (1)-また新しいスタートです

100万語からほぼ6ヶ月かかって200万語通過しました。100万語の時は、語数を稼ぐことにあんまり熱心じゃなかったので、語数が分からないPBは面倒なので10万語ぐらいはあったかもしれないものも一律5万語にしてしまったり、今思えば1万語くらいはあったと思われる児童書もゼロに換算してしまったりしていたので、実際にはもっと短期間で通過してたのかもしれないんですが、1年近くかかりました。読む速度が2倍になったってこと?(>んな訳ないが)

読んだ冊数は68冊。

GRについては
レベル0:17冊
レベル1:8冊
レベル2:10冊
レベル3:6冊
レベル4:3冊
レベル5:10冊
レベル6:6冊

PB:4冊(ただし1冊を再読したので実際には3冊)
児童書:4冊(ぜ~んぶジャクリーヌ・ウィルソン)

100~200万語は以下のような感じでした。

① CERの5~6の未読のものを中心に読み、CERについては1冊を残し、出版されているものは全部読んだ。気に入っていたCERを読みつくしてしまったので気が抜けてしまった。早くどんどん新作を出版してほしい。
② キャサリン・グレアムのバーナビー警部のシリーズの1作目を2回読んだ。でも、今の私の英語力だととても消化不良でしかも読後にとても疲れる。好きな作品で映像もあるので早くこれがラクに読めるようになりたい。原作と映像の比較も面白い。
③ 久しぶりにシドニー・シェルダンを読んだ。やっぱり面白いし、文章が上手なので(>ずいぶんと失礼な言い方かもしれないが)、OBW3の読みにくいものよりラクに感じたりする。
④ ジャクリーン・ウィルソンに出会った! スピード感をもって読めるし、人生について色々考えさせられる。
⑤ 「100万語」の時はちょっと重たく感じたCER5~6がかなりラクに読めるようになった。でも、「英語力が上がってる」という実感は今一つかな?

「英語力を上げる」も私が「多読」をやってる一つの「目的」ではあるが、200万語の最後の方でジャクリーヌ・ウィルソンに出会ったことで、「読書」の「原点」に立ち返ったような思いがしています。本は英語であれ日本語であれ、「読書」という「目的」のために読むのがいいのかも…。「面白い!」「好き!」あるいは「○○について知りたい!」など。

…ということで、「300万語」は「イギリスについて物知りになる!」というのを目標にOFFを中心に読んでみようかな…と思っています。

1.2005年1月8日:The Railway Children:OBW3:レベル3:10000語:10000万語:☆☆☆☆:これ、ジャクリーヌ・ウィルソンの本の中に出て来たの。どれだったかな? 主人公の愛読書の一つとして。で、「へぇ、やっぱGRに入ってるリトールドものってのは、現在イギリスで読み継がれている「ちゃんと生きてる」古典なんだね」と思い読んでみました。
 主人公は3人の子ども。裕福に幸せに暮らしていたんですが、ある日の夜遅く父親のところに来客があり、翌朝から父親は「仕事」」のために不在に。母親と3人の子どもは線路のそばの郊外の家で暮らすことになります。

2.2005年1月9日:The Children in the New Forest:OBW2:レベル2:6621語:16621語:☆☆☆☆☆:ピューリタン革命の時代が舞台。昔、『在日外国人』(岩波新書)を読んだ時、伊藤博文が当時お札の肖像画に描かれていたことを「信じられないほどの無神経」と言うようなことが書いてありました。つまり、伊藤博文は「日本史」では日本の近代化に貢献した首相だったかもしれないんですが、北朝鮮・韓国の人から見れば、朝鮮半島植民地化の悪の権化。彼は初の朝鮮総督だった訳ですから。実際に日本の国内に朝鮮半島出身の人々が住んでいるというのに、そういう人物をお札にしていることの無神経さ…。実は、私はこの本を読むまでは、伊藤博文が「初の朝鮮総督」であったことは知っていても、そのことが、朝鮮半島の人々や「在日」の人々の心に起こす「波紋」ということには、まったく無知でありました。
 で、クロムウェルも、まぁ、色々と「行きすぎ」はあったにしろ、日本の「世界史」で習う時には、「王の横暴」より「議会」が優先する…という「イギリス民主主義」を進展させた「ピューリタン革命」を推進した人物ではある訳です。しかし、このクロムウェルについては、英会話学校で「アイルランドに行ったら口にしないように」と言われたことがあるのです。つまり、この時、クロムウェルはアイルランドがカソリックであることを口実にアイルランド征服をし、非常に残虐に大量の人を殺しているんです。(>しかし、クロムウェルはケンブリッジ大学の出身なので、以前仕事でケンブリッジに行った事があるんですが、ケンブリッジの町では「英雄」扱いみたいでした)
 「革命」は「国民同士」が「主義主張」「思想信条」のために命を賭して争い、闘うものです。主人公はクロムウェルに両親を殺され、残された子どもたち。この時期の、血で血を洗う、緊迫した雰囲気がよく分かります。

3.2005年1月9日:Who Sir? Me Sir? : OBW3:レベル3:10296語:26917語:☆☆☆☆:主人公は貧しい子どもたちの通う公立校の生徒。担任の先生は、やる気のない生徒たちにやる気を起こさせようと、近くのお坊ちゃん学校の子たちと、トトラアスロンの試合をさせようとします。その、「しかけ人」の先生が途中でサポートを投げ出してしまったりするんですが(>おいおいって感じです。子どもの方は「大人ってやつはいつもこれだよ」とさめてるんだけど)、子どもたちは最後まで頑張る。子どもたちを最後まで応援してくれた大人もいました。
 お坊ちゃん学校の子たちは、「ちょっとヤバいかも」となるとアンフェアな手を使って来たりする。それに対して、主人公たちも、同じようにアンフェアな手を使う。「だって向こうも使ったんだし」というのが、その理由なんだけど。で、両方アンフェアな手を使ったので、最後、勝負は持ち越し…となるのだが、でも、イギリスの「フェアプレイの精神」ってこういうことも含めてのことなのかな? 階級制度の壁っていうのも、やはりすごいですねぇ。(>少し前の時代の話だけど)

英語快読200万語 (12)-ジャクリーヌ・ウィルソンで200万語通過! 

最後はジャクリーヌ・ウィルソンで駆け抜けるように200万語を通過!

「多読」って結局、「読みたい本」「好きな本」との「出会い」なのかも…。そして、その「出会い」は、こつこつ読み続けている途中に「自然に」訪れる。 ジャクリーヌ・ウィルソンの名前もきっとこれまでも何度もSSSのHPで見ていたのだと思う。でも、「時期が来るまで」は彼女の作品に出会えなかった…・。

やはり、その時の語数に応じた「アンテナ」の力というか、周波数というか、そういうのがあるように思う。「100万語未満」の時にはやはり「100万語超」の人たちが互いに推薦し合う本には反応できない…というか。その意味でSSSの掲示板で自分と同じくらいの語数の人のカキコミを読むのはとても参考になる。

あと、SSSの書評やら、色々なブックリストも。SSSのHPはディープなのでまだ探索しきれていないのだけれど、あちこちに色々な情報が詰まっていて、ふらふら歩いていると「あらま!」というような情報に出会って、そこから自分の「多読」の「道」が開けていくことがある。

ジャクリーヌ・ウィルソンの本は面白い。イギリス好きの私としては、色々イギリスの状況が分かってためになる。児童書だし、ティーン向けなので、多分日本で言えば「びみょう」みたいな表現も入ってるんだろう。だから、知らない表現もいっぱいあるんだけど。

面白くて、読みやすくて、切なくて、でも救いもあって、読後「暗く重い気持ち」にはならないんだけど、人生というのは誰にとっても生き難いものなのかも…と思わせる。読みながら色々と人生について考えさせられてしまう。

67.2004年1月5日: Double Act:児童書:レベル5:☆☆☆☆☆:34000語:981273
語: これも切ない…。子どもも自分のさまざまな感情の間で揺れる。ついつい言いたいことが言えなかったり、不安になったり、意地悪いこと考えてしまったり、嫉妬しちゃったり…。
  主人公は双子ちゃん。母を病気でなくし、父親と母方の祖母と「新しい家族」として暮らしていたのですが、そこに、父のガールフレンドが登場!
  イギリスでは離婚・再婚は日常茶飯事で、息子が通っていた保育園でも、「ファミリー」という絵が貼ってあって、そこには「ステップ・マザー」とか「ステップ・ファザー」とか、そういうのもごくごく自然に配置してあったように記憶しています。
  Qを連れてよく行った私立図書館の児童書のコーナーで見た「家族」というような本でも、「あなたの両親が離婚することああるかもしれない。人は愛し合っても、途中でもう愛し合えなくなることもある。でも、それでもあなたの両親はいつまでもあなたの両親だ」とか、「あなたのお母さんに新しいパートナーが出来るかもしれない。人を愛することはとても素晴らしいことだ。そのパートナーはあなたのことも愛してくれるだろう。あなたのお父さんももちろんあなたのことを愛し続けている。あなたを愛してくれる人が増えるのは素晴らしいことだ」とか、そんなようなことが書いてあって、「離婚再婚をネガティブにとらえないように、小さい頃から教育されるんだなぁ」なんて思っていました。
  でも、やっぱり、子どもは新しいパートナーを前に「違った人」みたになっちゃった父親を見るのはいやなのね。やっぱり、子どもの人生だって「きれいごと」じゃすまないのね。…という訳で、この双子ちゃんは、父親にも、父親のガールフレンドにも冷たい態度を取り続けます。
  生きていくってビターだ…。私も未だに自己肯定と自己否定の間を揺れながら生きているけれど、結局、大人も子どもも一生、ネガティブな感情にしばしば翻弄されながら生き続けるしかないのかも…。

68.2005年1月7日: The Worry Website: 児童書:レベル5:20000語:101273語:
☆☆☆☆☆:スピード先生は、サークル・タイム(>ホームルームみたいなもの? 
でも丸くなって話すみたい)にみんなの悩みをみんなで解決する時間を設けていたのだけれど、でも、「おねしょが治らなくて」というのを正直にみんなの前で発表したウィリーはそのあとずっとからかわれることになってしまった。最近の小学生はIT能力も高いから、みんなが匿名で悩みを書き込み、それにまたみんなが匿名でアドバイスをするという、そういうサイトを先生は立ち上げた。色々な子どもが色々な悩みを書く。で、先生は「匿名で」のはずなのに、何故か誰が書いたか分かってしまって、こっそりとその悩みの解決のために力を貸してくれる。
  この話の一部は、実はネットで読めるようになってたらしく、著者は、子どもたちに「自分たちで同じ形式でお話を作ってごらん」というのをやった。そしたら15000も応募があって、とても優れた作品もいっぱいあったそうだ。そのうちの一つが採用されて、この本の中には収められている。それは、とてもリアルででもとても辛い話だ。その子は自分の悩みを書こうかな…と画面に向かう。でも、「本当の悩み」じゃなくて「にきびが出来はじめちゃったの」みたいなことを書く。彼女の「本当の悩み」は、父親の母親に対するDVだ。昔は良い父親だったんだけど、仕事を変わったのを機に父親も変わってしまう。最後その子は「結局のところ、他人には知られたくないことってあるのだ」と、話を締めくくる。
  この話を書いた子の文章力は子どもとは思えないほどすごい。主人公の苦しさが切々と伝わってくる。
  ジャクリーヌ・ウィルソンは、この話の主人公を登場させ、最後にもう一つ話を加えている。この話の主人公と障害を持つ女の子の友情の物語だ。
  日本の児童文学も優れたものがたくさんある。だけど、日本の児童文学ってもっと「きれい」な気がする。イギリスの児童文学は、「今」「現在」「子どもたちが苦しんでいる(かもしれない)状況」を、リアルに描く。子どもたちの中にある「いやな自分」もリアルに描く。大人たちの「いたらなさ」もリアルに書く。そういう「現実」が子ども向けのものに描かれている時、同じようなことに悩んでいる子たちは、「あぁ、自分だけじゃないんだ」と思ったりするかもしれないし、そういう物語の中で何らかの「救い」が示される時に読者が感じる「カタルシス」は、きれいな夢物語を読んで辛い現実から一時遊離した「カタルシス」とは異質なもののように思う。もちろん、きれいな物語はそれはそれとして子どもにとても必要なものだけど。
  彼女の作品を読むと、子どもの頃の自分や、子どもの頃から成長してない自分についても思い出したり、考えたりさせられるけど、「大人として」自分はどういうふうに我が子に向き合えばいいのか、子ども世代と向き合えばいいのか…そういうことも考えさせられる。

英語快読200万語 (11)-停滞期&人生の辛さ

100万語の時もそうだったのだけれど、「最後の10万語」って、「あと○万語で100万だ!」というのを意識してしまって、なかなか「自然体」で読めなかったりします。70~80万語くらいまでは、語数を意識しないで読んでるんですけどね…。

さて、CERをほぼ読み終えて停滞気味だったのですが、私が思うに「停滞期」というのは、第一に仕事が忙しくて多読をする時間的精神的余裕がない、という時に必然的に訪れるものではあるが、第二に、好んで読んでいたシリーズを読み終わってしまって、次に「○○を読みたい!」というハッキリとした「意志」が芽生えていない時に訪れるものでもある。

で、今、ちょうどそういう「狭間期」なのですが、たまたま買ってあったジャクリーヌ・ウィルソンの少女向けの本を読んでみて、読み終わった後で、「あれ? ひょっとしたら?」と思って調べてみると、これが、彼女の本は実は大変な人気があることをSSSのHPにて発見。おぉ、そうだったのか…。

ローティーンからミドル・ティーンくらいの少女向けの本だけど、これがなかなかビターです。「生きる」ということは、どんな年齢の「人間」にあっても、なかなかに辛く切ないものなのだなぁと思わされる。

だからこそ、バレエが私の人生に与えてくれる「彩り」に感謝しなくては…と改めて思ったのでした。

65. 2005年:1月3日:Lizzie Zipmouth: 児童書:レベル2.5~3:7000語:
916273語:☆☆☆☆☆:母親と2人で暮らしているリジーは、母親の3度目の夫(>あるいはパートナー?)および義理の弟と同居することになります。でも、本当はリジーは母と2人暮らしがいい。リジーの母親の2度目の夫(>あるいはパートナー?)は、最初のうちは優しいフリしてたけど、そのうちリジーのことをどなったり、体罰を与えたりするようになったから。
  で、リジーは「絶対に口をきかない」と決めます。母親の新しい夫はまぁいい人そうだけど、「でも、だまされない」とリジーはガードを固める。ある日、夫の祖母の家に一家して訪ねます。このおばあちゃん、なかなかの頑固者。でも、このおばあちゃん、人形のコレクションをしていて、リジーとこのおばあちゃんは次第に心を通わせるようになります。
そんなおばあちゃんもある日脳梗塞だか心筋梗塞だかで倒れて、言葉が出なくなってしまいます。身動きも不自由になってしまい、リハビリ生活に入ります。「年を取ること」の残酷さも、子ども向けの本だけれど、隠さずにストレートに描かれている。

あぁ、子どもにとっても「人生というのは辛いのだなぁ」と思う。イギリスの児童書って、けっこうリアリズムで貫かれていてビターなんですよね。子どもにとっても「生きにくい」人生(>子どもは「逃げ場」や「逃げる手段」がない分、不幸な環境にある場合大人以上に辛い試練に耐えねばなりませんが)、大人ならなおのこと…。色々思うにまかせぬことが多いけれど、人生ってそういうもんなのかもね…。そんな「辛い」人生に、バレエという「彩り」を持てる私達は幸せなのだと言えるでしょう。「これをやっている時は楽しい」という物を持っているっていうのは、やっぱりとても幸せなことですよね。

66. 2005年1月4日:Bad Girls: 児童書:レベル5:31000語:947273語:
☆☆☆☆☆:胸がつまるようなお話です。子どもも色々な悩みを抱えながら、しかし、それをどうしていいか分からず、苦しみながら生きているんだなぁ…と思う。主人公のマンディは学校でいじめにあっています。しかも、そのいじめグループの1人は、ちょっと前まではマンディの友達だったメラニー。いじめのタネはマンディの両親が年取ってること。マンディは、両親が長い間不妊治療を重ね、ようやく授かった子どもだったのです。だから、マンディは両親からとても愛されている。 でも、マンディは自分の両親が他の子の両親みたいに「若くないこと」を恥ずかしく思ってしまう…。母親がマンディに「可愛い格好」をさせたがるのも内心うっとおしく思ってしまう…。 いじめはエスカレートして、母親は学校に訴えたりもします。しかし、学校側も適切な対処が出来ない。そんなある日、隣の家にターニャというちょっと年上の女の子が来ます。隣の家の奥さんは、里親をやっているんです。マンディとターニャは仲良しになり、マンディはようやく心の安住を得ようとします。でも、ターニャは万引き常習犯。マンディは
そのことでも苦しみます。
学年も変わり、最後の方で、新しい担任の先生が、クラス討論(サークル・タイムと彼女は読んでクラスを丸く座らせる)で「いじめ」をテーマに取り上げます。みんなぎょっとするのだけれど、彼女の手腕によって、みんなだんだん色々発言したり考えたりし始めます。 先生は「誕生日でみんなが祝福してくれてプレゼントをくれてとってもはっぴぃな時、あなたは人をいじめたいと思う?」と問う。「人をいじめたくなる時」はどんな時か、「いじめる子」も「かわいそう」なんだ…ということを、生徒たちに考えさせる。
まぁ、現実はそんな風にうまくは進行しないのかもしれないけれど、大人が適切な場所で適切な処置を取ってやれば、子どもの人生の苦しみの8割は解消できるはず…。前の担任の先生にも校長にもその「手腕」がなかった…。
マンディの母親もマンディを本当に愛しているけれど、マンディの微妙な心の揺れや、マンディの悩みを分かるだけの「知恵」というか、「感性」というか、そういうのが足りなかった。父親は割合マンディの心のありように近いところにいるのだけれど、仕事もあるし(>母親もパートで働いているけれど)、いつもマンディのそばにいられる訳ではない。
親も教師も、みんなが新しい担任の先生のように「知恵」も「感性」も「力量」も備えている訳ではない。熊沢誠先生が『女性労働と企業社会』で「中学の先生に必要なもの」としてあげている「人間力」をみんなが持っている訳じゃない。
大人も子どもも色々な「限界」を抱えながら、「人間力不足」のために、自分で自分を「生き苦しく」しているのかもしれないです。「中学の先生」以外の大人も、子どもと関わる立場にある人には「人間力」が必要だなぁ…としみじみ思う。親や教師に「人間力」があれば、どれだけ多くの子どもが救われるだろうに・…と思う。
大人も欠点や能力不足に悩みながら「自分の人生」であっぷあっぷしている訳なので(>私もその筆頭)、自分の子どもや自分の生徒の「危機」に、適切な時に適切な対処が出来ない。子どものサインを見逃さず、適切な対処が出来るよう、大人は「知恵」と「感性」を磨く必要があるなぁ…としみじみ思いました。