荷宮和子『声に出しては読めないネット掲示板』(中公新書ラクレ)の中に、2ちゃんねら~が2003年夏、「折鶴オフ」をやった時のカキコミとして「なさぬ善より、なす偽善」という言葉が紹介されていました。就職活動がうまく行かず大学生が腹いせに原爆記念公演の折鶴に火をつけて「燃やした」のに対し、高校生の2ちゃんねら~
の呼びかけで、折鶴を折って届ける…という試みがなされた時のこと。
途中、「そんなの偽善ぢゃん?」という声が何度もあがったけれど、この「なさぬ善より、なす偽善」という言葉に、「とりあえずやってみようか…」という方向に議論が流れていったそうです。
私で言うなら、さしずめ、「読まぬ古典より、読むグレーディッド・リーディング」でしょうか。(>全然違うような気もするけれど)
正直に言えば、自分の仕事やっていく上で「これくらいは読んでおかなくちゃね~」っていう(イギリス)文学の作品はいっぱいあるんですね。でも恥ずかしながら読んでなかったりする…。
本物はいずれ読むとして、とり急ぎグレーディッド・リーディングで「あらすじ」とそのエッセンスとなる「香り」(本物の香りをなるべく損なわないようなリライトがされている)を味わっておくのも、「読まぬ古典」よりはいいかなぁ・…と。
しかし、「古典」の「難しさ」というのは、「英語」(が古い)にではなく、当時の「状況」を知らない、当時の「常識」を知らない…という点にある…というのがあるようです。昔英文学専攻の同僚に「トマス・ハーディなんて大衆作家だったのに、何で読めないのかしら。現代のミステリーとかだったらもっと読めるのに…」と聞いた時に、そのようなことを言われました。
ギャスケル夫人なんてのは、正直に告白すれば「と~ぜん!」読んでなきゃいけないんですけど、読んでなかったりして(ペーパー・バックは何冊も持ってたりする)、お恥ずかしい限りであります。
今回、オックスフォードのシリーズにあったこのギャスケル夫人のCranfordというのを読んでみて、この「昔の文化を知らないから読めない」「自明なこととして書いてない部分があるので理解できない」っていうのは、確かにあるなぁ…と改めて思ったのでした。
19世紀前半において、「社交界」というか「中(の上)・上流のソサエティ」が構成される時、「商売」に手を染めている・…ってのは、それだけで×なんですね~。ふむふむ。で、昔商売してても今は「引退」して「金利」とか「年金」で暮らしてるんなら○なんです。
このクランフォードという小さな町の「ソサエティ」には、実はそんなに裕福じゃない人もいるのですが、みんなはそれを見てみぬふりをする。裕福じゃない人もみんながそれを知ってることを知っていて、気づかれていないふりをする…。まぁ、ちょっといやらしいっていえばいやらしいんですが。
で、私が分からなかったのは、そういう「裕福じゃない人」の1人のところにご婦人方がお茶に招かれるんですが、その「裕福じゃない人」はお菓子のトレイをメイドが持ってきた時に「それがなんのお菓子だか全然知らないふりをした」けれど、みんなはそのご婦人が手づからそのお菓子を「午前中かかって焼いた」ってことを知ってい
て、でもそんなことにはみじんも気づかないふりをしたっていうのがありまして、これって、どこが「まずい訳?」ってのが良く分からなかったんですね。
もちろん、まぁ、今でこそ「家事が出来る」は「女性の能力」として評価されますが、昔は日本でも「家事が出きる」=「いやしい家庭の出身」だった訳で、そういうことなのかなぁ? で、メイドが1人しか雇えなくてお菓子を焼かせることが出来るほど人手がないってこと? それは確かにあるとは思う。
でも、メイドの監督は主婦の大事な「仕事」だったので、「何のお菓子をメイドが焼いたか、あるいは買ってきたか」知らないってのはまずいんじゃないのかなぁ…とか、その辺りがよく分からなかった。今度英会話に行った時に先生に質問してみようと思ったりしてます。
もう1箇所、メイドが「ティー・トレイ」を「ご婦人方が座ってるソファーの下から出さねばならなかった」のだけど、みんな何事もなかったようにおしゃべりし続け、見て見ぬふりをした…というのだけれど、これがどう「貧乏」と結びつくのか…。これもネイティブか英文学の専門家にに聞いてみないと良く分からないですね。
36. 1月10日(水):Cranford(OBW4):1300語:15000語:432200語:☆☆☆☆:
あらら、酒井先生のリストじゃ、これ★だよ。私はけっこう面白かったんだけどなぁ。まぁ、それは私がこの時代のイギリスのことに興味があるからだったりするのかしらん。お互い助け合いもするが、牽制し合いもする「女の世界」がよく描けていると思うんだけどな。ある意味、どこにでもいそうな女性ばかりで、その意味でも、人間の普遍性のようなものがよく出てたりすると思うんだけど。評者が男性だと、あまりにも「小さな世界」っていう感じでつまらないのかしらん。
37. 1月15日(木):Murders in the Rue Morged(OBW2):700語:6600語:438800語:☆☆☆☆:
ポーの有名な『モルグ街の殺人』であります。これ、やっぱり簡単バージョン(多分)で、中学生の頃読んだなぁ…。これも古い時代(19世紀前半)に書かれた物ということもあるのでしょう、700語レベルの、本来簡単な物のはずなのに、「あれ?」っていう単語がいくつかありました。”agile” “lightening-rod”は脈絡で分かったけれど、“latticed”は今一つピンと来ない。後は、「密室のナゾ」を最初に解く時の「窓のカギ」のトリックの叙述が(これは英語の問題というより、科学的想像力の問題?)今一つピンと来なかったのと、そのトリックと、最後に真犯人
の行動が明らかになった時にこのトリックとの関係はどうなっとんじゃ?というのがなんか今一つ不明だったなぁ。後でもう1回読んでみようっと。名探偵コナン君もミステリーは二度読みするらしいけど、タネが分かってもう一度ミステリーを読むのって、また別の味わいがあるんだよね。
38. 1月18日(日):British Life (PGR3:1200語:7100語:445900語:☆☆:
ペンギンも「食わず嫌い」は良くないんじゃないかなぁと手を出してみたが、やっぱりあんまり好きじゃない。多分、これ「対象年齢」が中学・高校生ぐらいだからかなぁ。で、なんかねぇ、「お勉強臭い」のね、このシリーズ。同じ「お勉強物」でも、たとえば、オックスフォードの歴史物なんかは、ある種の「主張」があるんです。でも、ペンギンのシリーズは知識をニュートラルに書こうとして平板になってしまっている。著者の個性が見えてこない。なんか「教科書的」。1200語も使える単語があるのに、なんか深みがなくて表面的。『モルグ街の殺人』なんか700語しか使ってないけど、ずっと読み応えがあると思います。