イギリス・バレエ・ライフ (3)-「週1回」という制約

そんなこんなで、NBSに週1回通っていましたが、週1回だと、たまたまその曜日にセミナーが入ったり、あるいはレポート提出の期限が近かったり、体調が悪かったりして1回あいてしまうと、2週間も間があいてしまいます。

それで、昼休みなどに大学から教職員用に開かれるヨガやエアロビのクラスなんかに出たりしました。エアロビは、私、どうも今一つ隙になれなくて、でも、ヨガの方は2タームぐらい通ったかな。こちらは、「ヨガと私」の方に改めて書こうと思います。

MPhilは1年間のコースなのですが、私は結果的には1年間では論文を書き上げることが出来ず、その後もライティング・アップ・ステューデントという身分で論文の完成のために勉強を続けました。本当は1年で論文を書き上げ、残りの1年は、大学院時代からの研究の蓄積とMPhilを元に「本」を書きつつ、新しいテーマへの挑戦を計
画していたんですけれどね。

それはともかく、週1回の授業というのは最初の1年間というか実質半年ぐらいで、もう出なくて良く、あとは論文の勉強のみ…ということになり、週1のレッスンを確保するために、もう1箇所どこかカケモチできないかなぁ…と探し始めました。

「結果的には」週1になってしまったとしても、週2回レッスン日を確保しておけば、ちょっと気が楽だなぁと思って。で、同じくRADのこちらは、「お教室」(SMBS)を見つけました。こちらも大人のクラスは週1回でした。このSMBSとNBSの2つをカケモチしながら、何とか週1回を確保していました。週2回やることはめったになかったけれど、勉強に卿が乗った時、体調が今一つの時、「あっちに行けばいいや」って思えるのは、ずいぶんと気持ちの上で楽でした。

SMBSの方はRADの「趣味のクラス」用のシラバスにそってレッスンが進みます。レッスンメイトは再開組が多いようで、「かなり踊れる」人ばかりでした。「踊れる」人が多いんだから、もうちょっと注意してあげればいいのになぁ…と思うこともしばしば。でも、あくまでも、「趣味~」って感じでレッスンは進んでいきます。

パもほとんど毎回同じ。テキストの中でバーもアンシェヌマンも「指定」されていて、それをRADから送られてくるテープに合わせてやるんです。だから、テープの中に「プリエ、○分の○、○小節」みたいなナレーションが入るの。で、先生は「ちょっと待って」なんて言って時々テキストをチェックする。「予習してこいよ~!」と思ってしまうこともあったなぁ。

先生自体は、多分自分も昔かなり踊れた人ではないかと思う。きっとどこかでプロだったんだと思います。身体もとてもキレイだし、動きがとても優雅です。顔も美人で華がありました。

このスクールも地元ではそうとう「プレステージ」のある学校です。RADの試験にも毎年大量に合格させています。このRADの試験の合格率を上げるのも、RADの「お教室」の場合、「至上命令」になります。

でも、まぁ、RAD本部が厳選した音楽と、専門家が考え抜いたバーやアンシェヌマンは確かに良く組み立てられていて、振り自体はなかなか楽しめました。

イギリス・バレエ・ライフ (2)-クラッシック・ダンス部 

さて、本格的に学生生活も始まりました。リサーチ中心の学生の必修の授業は週1回 しかありません。それも夕方から2コマ。これは、大学院にはパートタイムの学生が沢山いるからです。パートタイムの学生の多くは仕事持ちで、仕事が終わってから授業にかけつけます。パートタイムの学生はフルタイムの学生が1年かかってやることを2年かかってやる。そして授業料も半分。良い制度だなぁと思います。

そんなある日、スチューデント・ユニオンのビルのサークル用掲示板を見ていると、「クラッシック・ダンス部」のものがありました。この掲示板には色々なサークルが「お知らせ」を出しています。「フットボール」やら「ボート」っていうオーソドックスなものから、「環境問題研究会」などのお勉強系のものもあれば、「ブディスト・ソサエティ」などの宗教関係のもの、「インドネシアン・ソサエティ」など出身国別(あるいは地域研究?)のもの…さまざまな団体があります。

で、肝心の「クラッシック・ダンス部」の「お知らせ」は…と言うと、「活動はNBSの大人クラスへの参加で、メンバーだと言えば特別割引がある」というもの…。で、次回からは「クラッシック・ダンス部のメンバーです」と言って特別割引してもらってましたが、レッスンの場で「M大学のクラッシック・ダンス部の人はちょっと集まって」みたいなことも全くなく、レッスンに来てる人の中で学生さんっぽい人をつかまえて聞いてみたりもしたんだけど、なんだか「実体」は分からずじまい…・。

ま、安くレッスンが受けられたので良いのですが、このあたりの「サークル活動」のあり方もなんだかイギリスっぽいと言えばイギリスっぽい。要するに、「サークルだ」っていうことになれば、「特別割引」してもらえるんだから、「実体」はともかく「サークル登録」しちゃいましょ!ってことだったのかな?

イギリス・バレエ・ライフ (1)-NBSでのレッスン

1994年夏のM大学における留学生のための語学コース参加中の「良く学び、良く遊べ」な生活の合間にも、私の頭の片すみにあったのはいつもバレエのこと。Qとこちらで暮らすことになった時、どこでバレエを習えば良いのか…・。

ロンドンではパイナップルで何度かレッスンしたことがあったけど、地方都市Mのバレエ事情については全く知らない状態でした。

で、イギリスで何かお店を調べようと思ったら、まずは「イエロー・ページ」(職業別電話番号帳)。市立中央図書館に行って「イエロー・ページ」のバレエ・スクールの項目を探しました。するとNBSというフルタイムのバレエ・スクールで大人のクラスも開講しているらしいことが判明。次に同じ市立中央図書館の芸術関係の本の置いてあるフロアに行き、バレエ雑誌をチェック。その結果やはりNBSに大人のクラスがあるという情報がありました。

NBSはM大学からも近いし、RADの学校だということだし、「イエロー・ページ」やバレエ・雑誌に載ってる情報を見る限り、かなりしっかりした学校のように思えました。で、まずはアドレス帳にしっかりと住所と電話番号を書き入れ、英語コース中に電話もしてみました。しかし、丁度その時は夏休み中で、9月の半ばから週1回大人のクラスが開講されているということが分かりました。イギリスでは大人のクラスでもかなり長い夏休み(ほぼ2ヶ月)があります。クラスは、バレエ初心者クラス、バレエ中級クラスの他コンテンポラリーとジャズ(だったかな?)がありました。

とりあえず、それだけチェックして9月に帰国。3月末まで仕事して、いよいよ英国に向けて出発。夢に見た英国暮しです。心配した母が、「落ち着くまで」と最初の3ヶ月くらい一緒に来てくれました。(世の中で良く批判される「母親を単身赴任先に連れてくキャリアウーマン」ってやつですねぇ)

さすがに最初の半年は新しい生活に慣れるのに精いっぱいで、バレエどころではありませんでした。「子連れ」であること「母子家庭」であることを考え、住居は大学の寮にしました。運良く、家族連れOKの寮に空きがあり入居できました。その寮は 「ミックスト」というのがポリシーの寮でした。すなわち、シングル、カップル、 ファミリーという点でも、学部学生、大学院生という点でも、また学生の国籍という点でも、色々な人々を「ミックスト」する。

大使館への登録やら免許の書き換えやら、ロンドンに出てやらなければならない手続きもいっぱいあったし、最低限の家具は揃っていましたが、鍋釜の類や食器を買ったり、TVを買ったり、TVのライセンスを買ったり(イギリスではTVを見るにはライセンスを買わねばなりません。買わなくても映りますが、違法行為なので摘発される
と留学生だし面倒です)…。

Qも最初のうち保育園に行くのを嫌がり、保育園への曲がり角で私の手を引っ張って「お家帰ろう」と言うのが不憫でした。私の仕事は子どもにこんな思いさせてまでする価値があるんだろうか…と考えこんでしまうこともしばしばでした。でも、Qも少しずつ保育園にも慣れ、なんとか生活が軌道にのってきました。R先生には2週に一度、面接していただき、あらかじめ提出した原稿をもとに色々助言をいただいていました。

夏休みに夫が来てくれて、その間に自動車を買ったり、教習を受けたりしました。イギリスには「ラウンドアバウト」という日本にはあまりないシステム(日本で言うロータリー)があり、「日本人がイギリスで起こす交通事故の80%はここで」というほど、慣れるまでは難しいシステム。でも慣れてしまえば、なかなか良く出来てるシステムです。

車もゲットして、生活が楽になったので、9月半ばを待っていよいよバレエの再開です。私は、QもいるのであえてPh.Dのコースには入らず、MPhilというコースに入りました。論文主体のマスター・コースで取らねばならない授業の数も少ないコースです。9月からはそちらのクラスも始まるので、忙しくはなったのですが…。

NBSのクラスは、半年近くレッスンがあいてしまったので、最初は初心者クラスに行きました。でも、何とかついていけそうだっし、先生だったかレッスンメイトだったかに「あなたは中級の方がいい」と言われ、次の週には中級クラスに出ました。中級だと、ちゃんとは出来ない部分もあったけれど、雰囲気がとてもバレエっぽくて、やっぱりこちらに出ることにしました。

フルタイムの名のあるバレエ学校ですので(プロ養成が前提)、そういうところでレッスンしてるんだ…という感慨もありました。更衣室も学生さん達のキャラクター用のスカートがかかっていたり、ポアントが何足もかけてあったりして、「バレエ学校~!」っていう雰囲気です。掲示板にはオーディションのお知らせなんかもいっぱいあります。フルタイムの生徒さんたちと更衣室で一緒になることもあります。みんな美しい…。

スタジオは天井がうんと高く、とても広い。もちろんピアニストさんがつきます。先生はムーブメントがとても優雅。動きが少し大げさなので、RADって言ってるけど、先生自身はロシア風の訓練を受けた方なのかしら。ピアニストさんもとても音楽的な方で、音楽的にして、かつ踊りやすい演奏をしてくれます。そして、いつも踊ってる私達を気にしながら演奏してくれるので、ピアニストさんと心を通わせ通踊る…という、本来のバレエのあり方も体験することが出来ます。バレエって本来、音楽を演奏する人と踊る人の「相互作用」なものだもんね。

細かい注意はしてくれないけれど、バーの各ステップの注意やアンシェヌマンの前の注意はきちんとして下さいます。この注意をいかに「自分で」生かせるか…がイギリスでのバレエ・レッスンの「勝負」ですね。

バーやフロアの組み立ては、とても優れていると思いました。身体が徐々に開いていくように出来ている。フィジカルにも考え抜かれている上に芸術性のある、とても楽しめるレッスンでした。アンシェヌマンも一度終わった後に非常に的確な注意を「一般的に」ですが、して下さるので、2回目に踊る時には「改善」がちゃんと感じられる・・。

でも、いくら自分で注意してても、自分1人の力で「正しい」やり方を身につけることはむずかしい・…。先生に個人的に注意してもらってはじめて、実は自分が「そっている」とか「お尻が出ている」とか、そういうのに気づけるんですよね。

「続ける」だけが目標の日々(4)-初めてのVa大会

そうこうしているうちに、職場から海外研修でイギリスに派遣してもらえることが決まりました。若い頃から留学したかったけど夢が果たせずにいた私は、少し迷ったけれど、大学院の「学生」の身分で留学することにしました。「客員研究員」の立場で研修に行くことも出来たんですが、あえて「イギリスで教育を受ける」という体験をしてみることにしました。

どこの大学院にするか、ということも、あちらに行く時に2歳半になっているはずの息子の保育園の受け入れ状況などとの兼ね合いも考えながら選ばねばなりません。海外研修の話が出る2~3年前にイギリスから客員研究員として日本に招聘されたロンドン大学のT教授が主催するワークショップでペーパーを読ませてもらった、という縁を利用して、T教授に留学先の相談に乗ってもらったりもしました。いくつかの大学と指導教授の候補をT教授があげて下さり、結局、ロンドンは避け、地方都市MにあるM大学に留学することになりました。

受け入れ先が決まってからは、車の免許を取ったり(いや、苦労しました)、奨学金に応募したり(イギリス政府の奨学金がいただけました)、あわただしい日々でした。1994年4月から留学予定でしたが、1993年の夏に開講されたPre-session English Courseにも6週間ほど参加しました。このコースはすごく楽しく、結局留学中はこのコースで出来た友達にずいぶん支えられました。妊娠・出産・育児と続きしばらく遊んでなかったので、Qを日本に置いての久々の一人暮らしで、思い切りはじけてしまい、いや~、よく遊んだ!。もちろん勉強もすごくしたけどね。

このコースで一緒だった友人たちは10月から本来のコースに入っていきましたが、私は一たん日本に帰りました。3月末まで仕事をして、また4月に今度はQと一緒に(夫は日本において)渡英する予定になってました。

という訳で、英語コースから帰国してからも、まだまだ色々とばたばたしてたんですが、その最中に12月に開かれるVa大会の「お知らせ」をいただきました。今考えれば「大胆だったなぁ」「無謀だったなぁ」と思うけど、当時指導して下さっていたY先生に「大人も出ていいんですか?」とお聞きすると「どうぞどうぞ」とのことだったので、出場することにしてしまいました。レッスンだって週1がやっとの状態だったのにね~。

しかも、その頃は大人は今みたいにはVa大会に出てなくて、結局大人クラスからの出場は私だけでした。レッスン回数も少なく、入門して日も浅かったのに…。かなり赤面かつひんしゅくものだったかも。でも、「やっぱり舞台に出たい!」という思いは強く、無理矢理出てしまいました。

踊ったのは、「白鳥の湖」の1幕のパ・ド・トロワの第一ヴァリエーションです。「何か踊りたいVaを探してらっしゃい」とのことでしたので、まぁ、主役は無理だろう…とソリストのVaをビデオなどで見まくって決めました。私がバレエを始めるキッカケを作ってくれたRADの先生やってる友人にも相談しましたが、「何が得意? ジャンプ? 回転? アダージオ? アレグロ?」と聞かれて、「うっ」と詰まり、「得意なものは何もないなぁ」と答えるしかなかった私…。その時、「いずれ得意なものは○○です」と言える私になろう…と固く決意しましたが、未だにないかなぁ。強いていえば「アレグロ」なのかなぁ。

当時は大人はレッスンでポアントを履かなかったので、私はバレエシューズでの出演。しかも、大人はレオタードに巻スカート(可)ということだったのに、私は、巻スカを買いに行く時間がなくて、結局レオタード1枚での出演という、まことになんというか今思い返すと「冷や汗もの」の出演でした。

Qも小さかったし、当時は本当に時間がなかったんですよね。身体も今思えばいつも疲れていたし。で、本番当日夫に西○スポーツの中に入っているバレエショップに巻スカを買いに行ってもらったんですが(いやいや、夫もさぞや恥ずかしかったことでしょう)、子ども用のしかなくて、とりあえず夫がそれを買ってきてくれたんだけど、先生に「これでもいいですか?」とお聞きしたら、「やっぱりヘン。なしで踊りなさい」ということになってしまって…。

実はすでに当時地元にもチャ○ットがあったんだけど、私はそのことを知らなくて、渋谷まで買いに出なくては…と思いつつ、その時間が作れなかった…。本当に思い返せば、「なんでそこまでして」「なにやってたんだかな~」という感じだけど、なんだか必死で夢中で駆け抜けてしまいました。留学前に一度舞台に立っておきたかった
んですよね。「怖いもの知らず」ですねぇ。R教室のVa大会の本番を見たこともなかったのに出演を決めてしまったし。まぁ、見てしまったらかえって出られなかったかもしれないんですが。上手な子どもたちのオンパレードですから。

英語コースで6週間ほどイギリスで一人暮しする前までは、私、激ヤセの影響が残ってて細かったのよね。でも、このコース中にしっかり元に戻ってしまいました。あの時気をつけて自分の体重のセットポイントをあのまま維持していれば、バレエ的にどんなに良かったろう…と思います。

その太くなっちゃった身体でレオタード1枚だからさぁ…。かなりお見苦しかったと思います。(>観客のみなさん ごめんなさい)

Y先生もきっと大変だったと思います。私が「出る」と言ったこと自体も、あるいは「え~!!!」っていう感じだったかも。だって私クラスで出席率一番悪かったと思うし…。自分でも振り返れば我ながら「え~!!!!」っていう感じですが、当時は無我夢中で周りのことなんか、全然見えてませんでした。「舞台に出たい」ただその一心で突き進んでました。私みたいなヤツが今自分のそばにいたら「なんだコイツ」って思うかも…。

大人の場合、R先生は生徒自身を(あまり厳しく)怒ることはないけど、生徒の出来が悪いと助教の先生が後で叱られるらしいし、Y先生が私のせいでいっぱい叱られちゃったんじゃないかと、申し訳なく思っています。Y先生には、ずい分と細かく指導していただき、また本番の時も袖で(心配そうに)温かく見守っていただき、本当にありがたく思っています。(>Y先生 ありがとうございました)

「続ける」だけが目標の日々(3)-たとえ月1回でも

R教室に通い始めたものの、乳児の世話はやはり大変で、レッスンには「超細々」通っていました。週1回なんて夢のまた夢。月1回も行けないような状態でした。それでも「ゼロよりマシ」と通い続けた日々。

レッスンに行けば、それはもちろん楽しい。あぁ、今日も来て良かった!と思います。

R教室は、基礎をすごくしっかりと見て下さる教室。そして、大人は大人のクラスがちゃんとある教室でした。オープンやカルチャーの「大人のクラス」に行ったことはあるけれど、「自分の教室」で「大人のクラス」に所属するのは初めてのことでした。

T教室では「えいや!」と難しいこともさせてもらっちゃっていたけれど、R教室では大人は丁寧に基礎を重ねていきます。「目からウロコ」のことも多く、それまでの自分のバレエが「力づく」であったことを思い知りました。

それらは、T教室にそのまま通い続けていても、いずれは気づいたことだったかもしれません。基礎を重ねて上手になるか、「とりあえず」やってしまって後から矯正するか…。

これは多分両面作戦で行くしかないのだと思います。どちらのやり方にもそれぞれの良さがあるように思います。

R教室の丁寧なレッスンを受けるうちに、少しずつ自分の筋肉が意識できるようになっていきました。脚も以前よりは上がるようになり(といっても今でも他の人よりずっと低い)、また上げ方も以前よりきれいな動きで出来るようになった気がします。

夫にもよく「見て見て、こんなに上がるようになったよ」と見せてたんですが、「R教室に行ってから上手くなったね」と言われました。

私は教室との出会いは「運命」だと思っています。私がT教室でバレエを始めたことも「運命」。そして新たにR教室に出会ったことも「運命」。そして、その後2年間のイギリス留学を経て、再びR教室と出会うんですが、きっとそれも「運命」だったのだと思います。

この時は夕方のクラスに出ていたのですが、お茶するような友達も出来ず、その点ではT教室がなつかしかったです。そりゃあ、月1しか行けないんじゃ、友達も出来ようがないよね。それでも、淡々と、細々と通い続けていました。

「続ける」だけが目標の日々(2)-断乳とバレエ再開 

妊娠・出産はきわめて順調だった私ですが、授乳でつまづきました。出産前日まで自宅で働いていたこと、退院したその日から自宅で仕事を再開したこと…が悪かったのかもしれません。原稿の締切りや顧客のお世話や…というのがあって、原稿書きや顧客の提出する書類チェックと顧客との電話でのやり取りというのを、すぐさま始めてしまったのです。

出産は重労働。やっぱり無理がたたったのかもしれません。乳腺炎というのになりました。夜中に突然寒気がして体がガタガタ震えだし、止めようと思っても止まらないんです。医者が見過ごしたけど胎盤が残っていたのか? このまま死ぬのか(胎盤が体内に残っていると死亡する)?と思いました。体温計を脇にはさもうにも痛くては
さめない状態。多分熱は42度とかそれ以上だったんじゃないかと思います。

翌朝、母乳マッサージをやっている所に行ってみると「乳腺炎」とのこと。乳房という身体の中のほんの一部、そして乳腺という細い細い腺がつまっただけで、あんな身体中がガタガタするほどのすごいことが起きてしまうんですね。

で、翌日からしばらくの間は毎日マッサージに通いました。医者に行けば即手術で母乳も止めなければならないケースだったんじゃないかと思います。マッサージの方のお話しによれば、今の人は栄養が良すぎて母乳も(乳?)脂肪分が高く、どうしても乳腺がつまりやすくなってしまうとのこと。乳腺ってそれまで使ったことのない腺だ
し細いので、通りも悪いんだそうです。

で、母乳の質を良くするために…ということで、「粗食」を勧められました。私はあの突然の「おこり」状態の恐怖が忘れられず、母乳がつまるのは高カロリー・高脂肪のものを食べるせい、と言われて、「食べる」のがこわくなってしまい、一種の拒食症状態になってしまい、ご飯(これはお薦めらしい)、白身の魚(を少し)、野菜類(とくに根菜類がお薦めらしい)というような食事。いや~、母乳出してる時ってカロリー消費量がすごいし、それなのに食べない状態なので、みるみる痩せていってしまいました。激ヤセ状態でした。この時は森下洋子さん並の体重になりました。

苦しかったです。でも、授乳自体は楽しく、マッサージのおかげで何とか乳腺炎ももちなおしました。「圧抜法」という「おっぱいに呼吸させる」方法があるのですが、これを2時間に一度くらいしてるとあまり乳が張らずに済みます。この「圧抜法」のおかげで産後8週間で職場復帰した後も、生後10ヶ月まで「働きながら母乳育児」を続けることが出来ました。

この乳腺炎のことがあったので、断乳まではバレエの再開はひかえました。運動で体温が上がるのが恐かった…。丁度Qが10ヶ月ぐらいの時にタイ出張が入っており、母乳マッサージの人からは「圧抜法してれば大丈夫よ」「1月以上の外国出張を圧抜法で乗り切って帰国してから母乳育児を続けた人もいますよ」と言われたんだけど、やっぱり恐くて断乳しました。

まぁ、現代医学的には断乳に丁度良いとされる時期で、お医者さまからは「これ以上は母乳も栄養がなくなるし、今やめるのが一番良いタイミングです」と言われました。

「まだまだ出てるものを止める」ということで、これはこれで大変で、3日間くらい高熱に苦しみました。が、まぁ、無事断乳に成功し、晴れてバレエ再開できる身になりました。

で、秋を待ってバレエ再開しました。Qが産まれてしばらくして職場のそばに引っ越したため、以前のT教室には通いきれないし、子どももまだまだ小さい…ということで、「一番近い」というのを最大の理由に(R教室のような立派な教室に対しずい分失礼かもしれないのだけど、その時は仕方なかった)R教室を選びました。事前に発
表会はチェックして、「絶対イヤ!」という教室じゃない…ということだけは確認しておきました。

大人のクラスの踊りについては、「幾何学的」な振り付けだなぁ…というのがその時の印象。でも、スッキリした良い振り付けだと思いました。

R教室とのつき合いは、だから実はすごく長いんです。Qの年齢とほとんど変りません。

「続ける」だけが目標の日々(1)-妊娠・出産とバレエ 

「夢のような日々(19)」にも書きましたが、妊娠が判明した段階で、レッスンをお休みすることになりました。妊娠中も続ける方もいらっしゃいますが、私の場合は、先生が「ダメ」という方だったので。その代り、「ヨガと私(5)」に書いたように、ヨガを続けていました。

妊娠・出産はとても面白い体験でした。妊娠中はいつも「謎の生物」をお腹の中に「飼ってる」みたいな感じで、すっごく不思議な感じ。「謎の生物」は私の感覚では「金魚」っぽくて(羊水に浮いてるから?)、なんとなくお腹の中で金魚が泳いでるみたいな楽しい感覚でした。

つわりもなく、体調は普段より良いくらいでした。妊娠中ということで「無理のない」生活を心がけていたのが良かったのでしょう。

出産も「痛くなかった」とは言わないけど、面白かったです。出産って、母子の初めての共同作業かも…。子どもの「出よう!」っていう意志、動きと、母親の「いきみ」のタイミングを合せる…。順調に進んでいたお産が途中一端進まなくなって、「少しお休みしていてね」と分娩室に置いていかれてしまったんですが、その間Qに「ちょっと休んだら息を合せて頑張ろうね!」と話しかけてました。

産まれる瞬間は、突然「ぶわ~!!!」と温かい奔流が体内から出てきた感じで、気持ち良かったです。その奔流に私自身も流されているような感じ。「お互い頑張ったね~!」っていう連帯感もあって、お腹の中にいる時からQのことは好きだったけど、私の中から出てきた瞬間からもっと好きになりました。

その後、看護婦さん(助産婦さん?)が、Qを洗ってから私の横にQを寝かせてくれて、「おっぱい含ませてみます?」というので、おっぱいを出してみると、Qは目も見えないはずなのに、「ぱくっ」とすごい勢いで乳首に食いつきました。「こいつは生命力が強い。きっとたくましく生きてってくれる」と確信しました。

私はマル高出産だったので、病院で産む選択をしました。産院で産む場合、自宅で産む場合は違うかもしれないけれど、病院で産む場合は、脚を固定されてずっと脚を開いてなくちゃならないんです。で、分娩台の上で思ったことは、「バレエやってて良かった~!」。身体の固い私は、もし、バレエやってなかったら、そうやって脚を開
き続けることもきっとキツかったと思うんですよね。バレエやってたおかげで、バレエやってるみんなよりは固いとしても、「バレエやってなくてその年になった私」よりはずっと柔らかくなってたはずなんですよね。

それにヨガをやってたのも良かったです。色々なポーズをすることは直前にはもう出来なかったけど、腕をひねるとか、そういう基本動作は直前までずっとやってたし、何よりも呼吸法が役立ちました。お腹の赤ちゃんに何よりもダメージを与えるのは貧血による赤ちゃんの酸素不足なんだそうなんですが、妊娠中は、仕事の合間にヨガの
深い呼吸をしたりってことを意識的にやってたので、血液の中にも酸素がいっぱい入ったんじゃないかなぁ…と思う。

「大人からのバレエ」前史 (4)-再開組 

私がバレエを始めたT教室には、子どもの頃バレエを習っていて大人になって再開した、という人が何人かいました。ブランクがあっても、また練習を重ねていけば、前と同じかそれ以上になる可能性がある…。

子どもの場合、親から言われて嫌々レッスンに通っていたり、自分が本当にバレエが好きなのかよく分からずただ何となく通っていたり…そういうこともあると思います。でも、大人になって「自分の意志で」再開する場合は違う。自分が何故もう一度バレエを踊りたいのか、その際どんな風に踊りたいのか、ということが分かって再入門してくる。

もちろんレッスンを重ねる中で最初の志は変化していくでしょうけれど。

先生にとっては、同じ教室に昔習っていた子が大人になって戻ってくれば、すごくうれしい。T教室にいた再開組の人はみな子どもの頃T教室で習っていた人でした。「大人のバレエ」が今のようにさかんになる前は、こんな風に昔習っていた教室に帰ってくる…というような再開組が多かったのかもしれない…。

で、自分の意志でバレエを再開した「やる気」のある大人は、子どもの頃に身につけた、「大人から」組には決して手に入れることの出来ない身体に染み込んだ「感覚」や「記憶」を持っているし、大人になって色々と自分で工夫することも知っているから、子どもの頃とは違った「踊り」が出来るようになっている。ブランクのある大人でも、案外体力もある。

先生はそういう彼女達のことを見て、「大人でもやる気があればかなりのところまで行ける」というのを、認識されたんじゃないかと思います。場合によっては「やる気」のある大人の方が、「なんとなく」の子どもより、ずっと「良い」生徒だったりする。大人の生徒も悪くないかも…と思われたというのはあると思う。

そのことが、「大人から」組が門を叩いた時に、先生をして「あの子達だってブランクがあっても思っていたよりずっと上達した。やる気があれば初めてでも大丈夫かも…」と思わせたのではないかなぁと思うのです。

もちろん、「大人から」組が頑張っているのを見て、再開組が門を叩いた時に「初めての大人だってあんなに頑張るんだから、経験があれば全然大丈夫」というように逆のケースもあったかもしれません。「大人のバレエ」がさかんになってからは、この両者の相乗効果というのがどんどん大きくなっていったと思います。

再開組の人にとっては、「大人から」組が楽しくバレエを踊っている姿を見て、「もう1回やろうかな」「初めての人だってあれだけやってるんだから、経験がある私ならもっともっと出来るようになるよね」と、再開のための障壁がぐっと低くなったと思います。

「大人から」でもバレエが始められるようになった…その陰には、色々な人がいました。その人たちの努力が、バレエの先生達に「大人から」でも「大丈夫かな?」と思わせた。そして実際に「大人から」始めた人が、「大丈夫!!!」と確信させた。

「大人から」組が頑張る姿は、今度は逆に年齢の高い子ども達がバレエを始めることを励まし、再開組が「えいや!」とまた踊る気持ちになるのを励ましてきた。継続組に「バレエにこんな楽しみ方もあるのねぇ」「そうよね。バレエの原点は楽しく踊るってことよねぇ」って思わせた。

「大人のバレエ」はそれぞれにバレエが大好きな、色々なタイプの「大人」達が相互に刺激しあって発展してきたんだなぁ…としみじみ思います。

「大人からのバレエ」前史 (3)-継続組

また、「オール・オア・ナッシング」思想の強い日本において、「プロにならないのに大人になっても趣味を続ける」という考え方は、最近でこそポピュラーになってきてますが、しばらく前まではそんなにポピュラーじゃなかったと思います。

受験勉強で習い事をやめてそのまま・・・という人は沢山いたし、まぁ、今もいると思います。大人になって習い事(お茶とかお花ではなく)を続けている人、というのを身近に見る機会も比較的少なかったと思うんです。

私について言えば、母が大人になってからピアノを始めたり(ピアノはあんまり長続きしなかったけど。でも実は彼女は最近また再開してます)、亡くなった父が大人になってから声楽や社交ダンスを習ったり、スキーや登山を始めたり(戦争がありましたので大人になってからじゃないと始められなかったという事情もあるんだけど)、という例を身近に見ていたにもかかわらず、(2)で触れた従妹に対する発言を見ても分かるように、「習い事は小さい頃から」思想、「オール・オア・ナッシング」思想に染まってしまっていました。私ってば、親より頭が固かったのね~。

ピアノは、大学受験を理由に高校2年でやめましたが、本当の理由は大学受験じゃなくて、「音大には行かない」ということが「改めて」明らかになった、ということだったと思います。母は「細々でも続ければいいのに」と言ってくれていたんですが・・・。今思えばもったいないことをしました。

音大を目指したことは小さい頃からなかったし(一時期作曲家になりたかったことはあったけど)、そも最初から「可能性はこれっぽっちもない」と思って過ごしてきました。それなのに、高校2年になろうという春、先生から、「あなたは音大は受けないのよね。受けるんだったら今言ってちょうだい。今言ってくれないと間に合わないのよ」と言われたことが、私にはすごくショックでした。

私にも行ける(かもしれない)音大がある、という「衝撃の事実」(まぁ、行けた、というより、受験できたとして、一番入り易しいところしか受けられなかったと思うけどね)に、高校2年になろうという、その時まで気づかないで過ごしてきたっていうか、そのこともショックだったし、自分には才能ないって思ってダラダラ過ごしてきた過去の時間もショックだったし。で、まぁ、一気に気が抜けてピアノをやめてしまいました。

ずっと後になって、新婚の大学院の先輩の家に遊びに行った時にピアノをずっと続けている奥様から、「私の先生はピアノを一生の友達にしなさいって言ってたの」と聞き、なんと言うか、衝撃を受けました。そうか、ピアノとずっと付き合って行けるんだって。

ピアノについては、その後一度再開し、またしばらく離れ、息子と一緒にまた再開して、その後超細々と糸がつながってる状態で、まぁ、たとえていえば、「昔すったもんだあった男と今はいい友達になってるけど、時々古傷が痛む」っていうような関係かな。

小学生の頃から音楽は好きだったし、音楽活動は好きで、小学校の合唱団、鼓笛隊、リードバンド(朝礼や入学式卒業式の演奏をするバンド)と音楽関係の団体は総ナメにし、中学でもブラスバンド部(ホルンとフルート)に所属していたんですが、「ピアノ<音楽」という観点で捉えたことはついぞなかった。なんというか「音楽」と「ピアノ」は私にとってはいつも別モノだった。

まぁ、単に私の了見が狭かった、考え方に柔軟性がなかった、ということを暴露してるだけなんですが、「大人になってからも続ける」ということが、バレエよりはずっと受け入れられそうなピアノにおいてさえこういう色々なことがある訳ですから、子どもの頃から続けているバレエを大人になっても、仕事をしながらでも、家庭がありながらも、「続ける」・・・ということ、これもやっぱり最初から受け入れられていたことではないんじゃないかと思うんですよね。

で、私が通っていたT教室でも、大学受験が終わってから復帰してくる子たちっていうのが一定人数いて、で、大学や短大を卒業して就職からも続けてた子たちが何人かいたんです。「大人から」のバレエを考える時やっぱりこの人たちの存在って大きいと思う。

「大人からのバレエ」でなく「大人のバレエ」というカテゴリーで考えるなら、こういう継続組が「大人のバレエ」のコアを強くしてくれている。就職しちゃうと学生時代みたいに時間が自由にならない。練習時間が減るので以前出来たことが出来なくなる場合もある。そういう葛藤の中で、「でも踊り続けたい」と踊り続けてきた人たち。

「大人から」組を可能にしてくれた前提には、大人になって仕事を持ちながら、家庭に入りながらもバレエを続けてきた人たちの「情熱」が、「バレエを好きな人たちには踊らせてあげる機会をあげましょう」と先生たちに思わせたということがあるんじゃないのかな・・と思うんですよね。バレエが好きなら仕事や家庭があっても踊り続けることが出来るのね・・・ということを、継続組が示してくれた。

継続組は「大人から」組に比べれば、技術面ではすっごい有利だと思いますが、実は「大人から」組より葛藤も深いと思います。そういう葛藤がありつつも、「大人から」組に親切に助言してくれ、「大人から」組を最も支えてくれるのが、継続組の先輩たちなんだと思います。

そして、「大人から」組の存在が、逆に継続組が踊り続けることを助ける役目を果たす場合もあるかも・・・と思います。大人になっても楽しそうに踊ってる大人の初心者の姿を見て、「私も就職してからも趣味で続けてみようかな」っていう風に良い刺激を与えることもあると思う。「あ、大人になってからでも始められるんなら、続けることはもっと出来るかも・・・」と言うヒントになる場合もあるかも・・。

T教室の場合は、私が入門した時には大学受験後戻ってきた子たちはいたけど、就職してる継続組はいませんでした。でも「準大人」が就職してもバレエを続けたことが、就職してからも続ける子たちを生んだんじゃないかと思うんですね。その後、学校を卒業して続ける子が出てきました。

「大人のバレエ」はこうやって色々な大人が支えあいながら発展してきたんだと思います。

「大人からのバレエ」前史 (2)-準大人 

そして、「準大人」、というか、18歳ぐらいの子たちの存在も重要です。T教室でも、「本物の」大人の私が入門する前に2人の18歳で始めたという人たちがいました。彼女たちは大学あるいは短大の時にバレエを始め、卒業後も仕事をしながらバレエを続けていました。だから、29歳というような年齢で始めた人は、T教室では私しかいなかったけど、「準大人」で始め、しかも、「本物の大人」になっても続けてる人はいたんです。

彼女たちは、とても練習熱心で、かなり踊れるところまで行ってたので、「準大人」で始めても「ここまでできるようになる」というのは、先生やレッスンメイトに彼女たちが充分示してくれていました。そして、私を一番助けてくれたのも彼女たちでした。私が入門した時には2人とも私より少し年下でしたが、なにくれとなく助言してくれたり、お茶に誘ってくれたり、本当に親切にしてもらいました。

こういう「準大人」で始めた人がいたからこそ、先生も「もうちょっと年上の大人でも大丈夫かも」って思ったんだと思います。そしてずりずりと20代前半の人、20代後半の人、30代前半の人・・・というふうに、入門可能年齢を引き上げていく、その最初の一歩を、「準大人」が作ってくれたんだと思うんです。

そして、こういう「準大人」で始めた人たちが、あちこちの教室で「本物の大人」で始めた人を励まし、助けてくれていたんだと思います。こういう「準大人」で始めた人たちに導かれて、「大人から」組もバレエの道を歩んで行けるようになったんだと思うんです。