イギリス紀行 (11)-センチメンタルジャーニー(2004年8月)

幼いQと2人で2年間の留学生活を過ごしたM。ここでも数日過ごしました。

その昔、Qが通った保育園にも行ってみました。もうあれから10年も経つんですね。保母さんもすっかり入れ替わってしまっていました。そして、以前にはいなかった保父さんが2人もいました。イギリスでも女性職への男性の進出が進んでいるんですね。

イギリスでの思い出が、Qにとっては「辛いもの」だったみたいなので、帰国してからあまりイギリスの話をしませんでした。なので、Qはイギリス時代のことをほとんど覚えてないのですが、毎日通った保育園はさすがに覚えていたみたいです。

疲れて食事の用意をする元気もない時なんかに良く行ったマッ○にも行きました。日本にいるとマッ○で外食って、よっぽど時間がない時って感じですが、イギリスにいると「マッ○ならとりあえず安心(>味的に)」って感じなのね。

イギリスで外食すると、えらい高いお金取られて(>1000円以上)、「そりゃ~、ないぜ!」っていうことがしばしばあるのです。なので、たとえマッ○でも、「とりあえず安心」なんです。

日本の外食文化は、これはもう、世界に誇っていいですねぇ。日本だったらどこでもあるちょっとした喫茶店のランチセットなんて、「輸出」したら、すっごい受けるんじゃないでしょうか? こういう「手ごろ」で「リーズナブル」で、しかも「美味しい」ものって、イギリスにはないんです。

ここのマッ○では、帰国前にQの友達を招いてパーティをしました。マッ○では、お誕生パーティのセットがあって、子供が飽きないようにお姉さんやお兄さんがゲームも含めて、上手に演出をしてくれるんです。で、親は親でおしゃべりする。

私の友達については、自宅(>と言っても寮の部屋)でフェアウェル・パーティしたんですが、Qの方はマッ○に「お任せ」してしまいました。

そして、2人で暮らした大学の寮も外からですが、眺めました。私たちが住んでいた部屋も、「あそこだよ」と…。ここは学生の入れ替わりの時期などに空きがあれば借りることもできるので、いずれまたQと来て泊ってみるのもいいかもしれないと思います。

2人でよく行った公園にも行きました。新宿御苑より広いかも…っていうぐらい大きな公園です。この空間で遊べたのはすごい贅沢だったなぁ…と思う。ある雪が降った日の朝、Qが歩いて保育園に行きたいっていうので、雪の公園を横切って、だ~れも歩いてない真っ白な雪の上を2人で足跡をつけながら1時間近く歩きました。それこそ「冬ソナ」のオープニングのところでチュンサンとユジンが足跡つけながら歩いたみたいに…。あれって、私たちにとっても「原風景」なのかなぁ…。

春も夏も秋も冬も…。ほとんど毎週のように通った場所です。

そして、小さい頃よく通った図書館。ここにも行きました。ここの子どもの本のコーナーで本を読んだり、布で作ったブロックがあって、これで「お家」を作って遊んだり…。

この夏は、私が大学で用事をしている間、Qは夫と、ここの図書館で「夏休みの宿題」をやってたみたい。19世紀末だか20世紀初頭だかに建てられた、歴史ある図書館で、リーディング・ルームもとても雰囲気があります。

Mでの2年間、2人でよく頑張りました。私も大変だったけど、Qはそれ以上に大変だったと思います。

イギリス紀行(10)-グリニッジ(2004年8月)

イギリスに行く前に、Qに「イギリスでどこに行ってみたい?」と聞いたら、「グリニッジ」という答えが返ってきました。お、渋い!

なので、行ってみました。

今は、ここは天文台としては使われていませんが、17世紀、チャールズ2世の時代からつい最近まで、ここは王立の天文台でありました。

グリニッジ天文台と言えば子午線の始まり(東経・西経0°)が通っている場所として有名です。

「経度」って、今私達は当たり前みたいに使ってますが、実は、この「経度」の発見って、とっても大変なことだったんだそうです。

ヨーロッパ人が「大航海時代」に世界各地を「探検」していた頃、実は、地球の全体像は分かっていませんでした。だから、航海も「手探り」の部分がありました。自分達の「現在地」を知るっていうことも、全体像が見えてないので、とても難しいことでした。

「緯度」の方は、比較的簡単に発見できました。星の高度との関係で、自分達の位置を計ることが出来たんです。

でも「経度」の方はそう簡単にいかなかった…。そこで、「経度」というものの測定方法を巡ってさまざまな試みがなされたのです。そういう営みの結果として、私たちは、「日本では東経135°の明石の時間が標準時」みたいに、平気で「経度」を使って、ある場所の位置関係を叙述しているのです。

また、天文学というのも、過酷なライフスタイルを強いられる天文学者の営々たる営みによって発達したものでした。グリニッジ天文台に居住する王室直属の天文学者達は、星を観察するために昼間寝て、夜一晩中仕事をするという、生活を強いられたのです。

科学の発達の後ろにある、たくさんの人類の「努力」の総量って、本当にすごい!

Qは子午線をまたいで写真を取り、「世界を股にかけた男」とご満悦でした。

イギリス紀行 (9)-ピットロッカリー:その2(2004年8月)

この地で泊ったのは、何と「城」です。昔の貴族だか何だかの「城」をホテルに改造したもの。

入り口の門の横には「門番」の家がある。そして、そこからかなりの距離、山道を登ると山の上にお城があります。昔はここ、馬車で上がっていったんでしょうね。お庭もとっても広い。木も、「森」風に茂っています。

ロビーとか食堂も、もう天井が高くて豪華! ゴルフコースもテニスコートもあるという、本当に広い広い敷地の中にあります。

で、優雅な気分で眠りにつきました。

ところが、夜中、手の甲に「熱い!」と、タバコの火を押し付けられたような(>押し付けられたことないけど)熱さを感じました。電気をつけて手を見てみると、手の甲にうんと細い(>かなり細い毛髪くらい)トゲのようなものが垂直にささっている。

う、ハチ?

この「熱さ」は私、一度体験したことがある。ロンドンでバスに乗ってる時に同じように虫に刺されたんです。その時はハチだと思ってなかったんだけど(>あまりの痛さにバスを途中下車し薬屋に入って刺されたところを見せたら、店員さんが「この女性が虫に噛まれた(bitten)っていうんだけど、どの薬がいいかしら」と言ったので、「じゃ、これってアブ?」と勝手に思ってしまったというのもある)、もし、あれがハチでこれもハチなら、これは2度目…。ひょっとして私死んだりする?

で、みるみるうちに手の甲が赤く腫れてふくらんできた…。

なので、フロントに電話をしてみました。フロントのナイトポーターはなんだか頼りないやつで、「それは、スコティッシュ・ミッジだ。たいしたことない。それにここにはいずれにせよ薬は置いてない」とのたまう。

スコティッシュ・ミッジって何さ!と、この期に及んで辞書を引く。ミッジはmidgeだろう、と当たりをつけて引いてみると、大当たり! 「小昆虫」とのことで、ま、じゃぁ、そんなに害はないのかな?

でも、翌朝になってもまだ手の甲は赤い。で、頼りになりそうな執事っぽいおじさんに手を見せて事情を話す。すると、「それはハチだ。でも、まぁ、ハチさされは時間が経って治るのを待つしかないんだよね」と言う。なんだよ、ミッジじゃないじゃん!

どうやら、このホテルじゃ、ハチに刺されるなんてのは、珍しいことでも何でもないらしいです。まぁ、これだけ木や花があればそうかもしれないけれど。だったら虫さされの薬くらい用意しとけよな~と思う。ほんと、見かけだおしなんだから~。

洗面所に行ってぎょっ!とする。昨夜は真っ白でとっても清潔!と喜んで入ったバスタブの表面に一面の小さな黒い虫が…。ひょえ~、まさか、昨夜入った時も虫がいた? いやいや、そんなことはない…。夜の間に窓の隙間から入ったらしい…。しかし、それにしても。

で、ベッドの枕元にハチを発見。のたのた動いている。あれ、ハチって1回刺したら死ぬんじゃないの? Qの説によれば「それはミツバチ!」とのこと。まぁ、これはミツバチではなさそう。

しかし、ハチの毒というのはとても強烈。手首近くを刺されたのですが、指の付け根あたりまで赤く膨れました。

執事には「放っておくしかない」と言われたが、だんだんかゆくなって色も紫っぽくなってきたので、薬屋に行く。で、薬をつけたらすぐに腫れがひいてきました。何だよ、薬つければ症状軽くなるぢゃん!

なんだかな~…の貴族の館でありました。

貴族の方々もなかなか苦労が多いのね。広大な敷地の中に住むというのもハチ刺されなど色々な「危険」と隣合わせなんですね~。

イギリス紀行 (8)-ピットロッカリー:その1(2004年8月)

この地は、なんでも夏目漱石が帰国前に旅行して、イギリスはみ~んな嫌いだけど、ここだけは好き、と言った場所らしい。

お菓子を並べたような、メルヘンチックな、小さな可愛い町です。

特に観光の目玉となるようなものがある訳じゃないんですが、一応、この町の「売り」らしいエコロジーな水力発電所というのを見に行きました。

日本的な規模から行けば、あるいはイギリス国内においても、かなり規模の小さな発電所なんですが、ここの「売り」は、サケの川昇りを妨げない発電所作りをした…ということ。

川を塞き止めてダムを作ることになった時、サケが産卵のために戻って来られなくなったら大変…というので、横にサケのためのバイパスを作ってあるんです。川の中をサケが戻ってくる様子も見られるように、水族館のように、一部窓が作ってあります。

「水」の力ってすごいです。日本は山がちの国で、水にも恵まれているんだから、もっと水力発電を活用すればいいのになぁ。

イギリス紀行 (7)-ダンディ:その3(2004年8月)

ダンディで泊ったホテルは、なんだか妙に日本趣味でありました。

なにしろ、「ゆ」というspaがあった。まじで「ゆ」と書いてあるのよ。入ってみたかったんですが、結局余裕なくてペケ。

館内の装飾も日本趣味なベンチとか、植木とかがそこここにある。

そして、お風呂場は、シャワーのスペースにすのこ(!)が…。そして、バスタブとは別にシャワールームが…。

日本に行って、すっかり「日本かぶれ」になった人が、ここのホテルの経営に関わっていると見た…。

でも、「温泉」気持ちいいもんね。そして、お風呂も洗い場と湯船が別々になってるのは、清潔感あっていいよね。かぶれるのも無理ないわ…と思う。

私、イギリス暮し、他のことはぜ~んぶOKだけど、風呂だけは日本の風呂がいいもん。

この夏、イギリスは異常気象で、あちこちで洪水がおきました。私たちが泊っていたダンディでも一部で洪水が出て、子どもが排水の大きなポンプに吸い込まれ、あわや!というところで救出!というのが新聞に載っていました。

Qは「晴れ男」なので、我々は、その洪水の隙間を縫うようにして移動。雨には降られたけれど、洪水には出会わずにすみました。

イギリス紀行 (6)-ダンディ:その2(2004年8月)

ダンンディの地場産業は、麻織物。

イギリスには「産業考古学」といって、昔の産業のあり方を調べて、保存したりする、そういう学問領域があるらしい。

なので、あちこちに、昔のやり方でモノを作って見せてくれる「保存工場」「保存仕事場」や、昔ながらの輸送方法を見せてくれる「保存鉄道」や「保存運河」などがある。

ダンディにも、地場産業の麻織物工業の歴史を学ぶことが出来る博物館があった。

麻と言っても、実は2種類あるんだとか。リネンとジュート。ダンディの方のはジュートが中心だ。

これは、どっちかと言うと、「麻袋」みたいなのを作る、そういう粗い麻だ。

詳しいことはメモしてこなかったので忘れてしまったんだけど、ジュートがダンディの地場産業になるについては、色々と、「戦争」だとか、そういうものの影響があったみたい。

どこの国でも工業化の始動の時には「女工哀史」的なことがあるけど、この工場でも女性がいっぱい働いていたらしい。

博物館の売店での買い物というのもイギリス旅行の楽しみの一つだ。ここの売店には麻布や麻糸が売っていた。しっかりした麻布に刺繍してバッグを作ったら可愛いだろうな。そういえば、昔、麻紐でバッグを編んだなぁ…。

ちょっと手芸心をくすぐられて、布を買ったけど、そのままになっちゃいそう…。

イギリス紀行 (5)-ダンディ:その1(2004年8月)

ダンディはスコットランドではかなり大きな町ですが、日本のガイドブックでは取り上げられていることは少ないかもしれません。ここは昔造船や麻織物工業で栄えた町です。

ここで私たちは「ディスカバリー号」というのを見学しました。「ディスカバリー号」は、アムゼン対スコットの南極点到達の競争で有名なスコットが、あの探検に出発する前に船長として乗り込んだ船です。出航は1901年のことです。

スコットとアムンゼンの過酷な南極点到達の競争については、GRのThe Coldest Place on the Earthにも描かれていますが(「英語快読100万語」の の文献です)、この「ディスカバリー号」はそういう「探検」的な目的というよりは、「科学」的目的のための南極渡航のための船でした。

船には多くの科学者が乗り込み、南極における植物や生物の生態、磁気のありようなど、さまざまな科学的発見がなされました。非常に寒い中での化学の実験なんかも行われました。

理科の教科書に書いてあるようなことって、こういう「営み」の積み重ねの結果、発見されたことばかりなのですよね。もっと感動しながら勉強すればよかったわ。

今でこそ、南極ってどんなとこだかかなり分かっているけど(>分からないこともまだまだいっぱいあるんだろうけど)、そもそも、南極ってどんなとこ?って、誰も行ったことなければ分からない訳です。どんな生物が住んでいるのかも、どんな植物が生えているのかも・・・。どれぐらい寒いの?ってことも、どれぐらい広いの?ってことも・・・。

そういういろいろなことを、今われわれがちょっと図鑑や事典を調べれば分かるってのは、すごいことですよね。

そして、そういう発見のためには、船員たちを運ぶ「船」も必要でした。まだ体験したことのないような寒さに耐えられる船・・・それがなければ南極大陸に到達することは出来ない訳です。その船を作ったのがダンディの人々であり、その船が出航したのがダンディの港でした。

「ディスカバリー号」は、ケープタウンを経て、ニュージーランドに立ち寄り、南極海に入ります。途中、氷に閉じ込められて動けなくなったりもしました。科学者の船員たちは、長い厳しい船旅の多くの時間を研究に割いていましたが、彼らの精神的肉体的健康のため、音楽やスポーツも奨励されました。船にはオルガンなどの楽器や、スキーなどのスポーツ用具も積み込まれていました。

食事もけっこう良かったみたいです。「ディスカバリー号」の一つの特徴は、上の位の船員も下の暗いの船員も同じ食事だったということ。しかし、大勢の乗組員のための長い船旅のための食料は相当の量にのぼります。胡椒や塩の入っていた箱なんかも、「こんなに沢山あった」というのが分かるように展示されています。生きている羊なんかも持っていったみたい。当然そのエサも必要ですよね。

燃料の石炭もすごい量が必要でした。そして、石炭を釜にくべる続ける労働は大変過酷なものであったようです。科学者たちの探究心もすごいけど、こんな大きな船を動かし続けるために、石炭を釜にくべ続けた船員の苦労もすごいと思います。

イギリス紀行(4)-セントアンドリューズ:その4(2004年8月) 

セントアンドリューズといえば言わずと知れたゴルフ発祥の地。今ではお金持ちのスポーツっぽいゴルフも、その起源は羊飼いたちが、枝で小石をたたいて飛ばして遊んだことから始まったらしい。

ゴルフ博物館には、そんなゴルフの歴史がつまっています。

私自身はゴルフをしないので、よく分からないのですが、ゴルフする人にとってはセントアンドリューズは「聖地」。「セントアンドリューズに行くの」と言うとうらやましがられます。

ゴルフの発達はまた「道具」の発達の歴史でもあり、ゴルフボールもゴルフクラブも今の形になるまで、さまざまな紆余曲折、試行錯誤を経ています。そういう昔のゴルフの道具も見ることが出来ます。

イギリス紀行 (3)-セント・アンドリューズ:その3(2004年8月)

セントアンドリューズ城は、今は「遺跡」でしかなく、そのごく一部しか残っていないのですが、昔はかなり大きなお城でした。で、これまた「まじっすか?」というような出来事が、「宗教改革」時代にあったのでした。

それは16世紀半ばのこと。あるプロテスタントの学生が、反カソリック的運動をしていました。そして、またしても、その学生は「間違って」燃やされてしまったのでした。それを、当時司教としてカソリック教会から派遣されてきていた何とか言う人が、城の窓から、「や~い、間違って燃やされてやんの!」と、バカ笑いしながら見ていました。

プロテスタントの学生たちは怒り心頭。城を襲い、城を占拠しました。籠城は1年近くも続いたとか・・・。

当時のヨーロッパの政治状況は、プロテスタント国とカソリック国が互いの勢力を伸ばすために同盟したり決裂したり・・・。カソリック国フランスとスコットランドは、イングランドと対抗するため、「つるむ」傾向にあったのですが、この時もフランスから沢山の軍艦が城を海側から包囲しました。

それでも城は落ちない・・・。

ガイドの学生の説明によれば、籠城してる側も食料が底をついてきたので、城からトンネルを掘って町に出ようと考え、他方攻める側は城がなかなか落ちないので、トンネルを掘って城に侵入しようとしてトンネルを掘り、それが偶然!地下で、ご対面!

城の売店で入手したパンフレットによれば、なかなか城が落ちないことに業を煮やしたカソリックの人々が、トンネルを掘って城に侵入しよう!とトンネルを掘り出した。その情報をゲットしたプロテスタント側が、侵入を防ぐために、城の中から「音」を頼りにトンネルを掘り進み、見事、地価でご対面!

いずれにせよ、かなりドラマティックではあります。そして、このトンネル、今でも残っていて(>実はその存在は忘れられていたのですが、後の時代になって家を建てるために地面を掘った時に見つかって修復されました)、そこに入って歩くことも出来るんです。城の方の入り口から、両者が「ご対面」したところまでですけれど。

いや~、宗教を巡る人々の「対立」ってすごいですよね。宗教は人々を「生き易く」 するためのものだし、たしかにそういう役割は果たしている訳ですが、いや、だからこそなのかもしれませんが、別の教義との「対立」が起こった時の、憎悪の激しさというのはとてもすごい。

私たちもこのトンネル、入って歩いてみましたが、まぁ、よくこんなもん掘ったよねぇ・・・って感じです。イギリスの歴史には、宗教がらみの(>と言ってもそれが政治や権力と密接に結びついているのだけれど)流血の惨事がそこここに散りばめられているのです。

イギリス紀行 (2)-セント・アンドリューズ:その2(2004年8月)

案内をしてくれた大学生は、毛羽立った赤いガウンを着てました。これ、大学と修道院がほとんど同義であったような時代、セントアンドリューズの修道僧が着ていたガウンのデザインをそのまま取ったらしい。

セントアンドリューズ大学の学生は、いずれ宗教上の指導者になるということで、ある種「特権階級」でもあったので、「赤いガウンを着た学生を轢いてはいけない」みたいな法律が出来、それが今でも生きているとか・・・。

それはともかく、このガウンをめぐっては「アカデミック・ストリップティーズ」というのがあるんだそう。セントアンドリューズ大学は、3年間で修了するイングランドの大学と異なり、4年制です。

1年生は、ガウンを首のとこまでピッチリと締めて着る。2年生は首のとこでちょっと緩めて着る。3年生になると、文科系の学生は左肩を出して着る。その心は「文科系の学生はマルキスト(>左翼=レフト)になるから」。理科系の学生は右肩を出して着る。その心は「科学者はいつも正しい(>ライト)から」。そして4年になると両肩を出してだらしない感じにだら~っと着る。

この習慣は今でも残っているらしく、今ではミサに出る学生の数は減ったとは言え、日曜日などのミサでは、みんなガウン着用で出てくるので、誰が何年生なのか一目で分かるとのこと。

その昔は、学生にとって教会のミサに出ることが「義務」でありました。セントアンドリューズ大聖堂は海岸にあるんですが、そこにはかなり長い桟橋があります。そして、ミサに出た学生はその桟橋の上を端まで歩いてまた帰って来なければならなかったそうです。

その理由は諸説あるらしいのですが、一つには、学生に桟橋の上を歩かせれば、大学当局がミサに出た学生の数をそこで勘定できるのでそのため、というもの。また別の説では、当時、学生は宗教の「修行」をしてたので、酒を飲んではいけないことになっていたのですが、強風の吹く細い桟橋をガウンをはためかせながら歩くと、前夜
酒を飲んだ学生はバランスを崩して落ちてしまう。それをチェックするため、ということになってるそうです。規則があれば破るものが必ずあり、海の上に赤いガウンがプカプカと浮く・・・。

セントアンドリューズ大学は3つのカレッジが15世紀だったか16世紀だったかに統合されて出来たそうなのですが、それらのカレッジの一番古い物の庭には、なんだかの木(>名前聴き取れませんでした)が植えられています。その木は、「これがあると爆弾があたらない」というジンクスがある木とのことで、第二次世界大戦中にウィン
ストン・チャーチルが、イギリス全土のあちこちに植えるよう命令したそうな。(> ほんまかいな?)

そのおかげで、このカレッジも爆撃を受けたんだけど、爆弾は庭に木を植えておいたおかげで、建物をわずかにそれて落ちたんだとか・・・。

戦争というのは洋の東西を問わず、人を非科学的にするとも言えるし、明日の命をも知れない状態にある時、人はどんなことにでもすがりたがるとも言えます。

セントアンドリューズ大学では、男子学生と男性スタッフの3分の2が命を落としたとその学生は言っていました。(>かなり多すぎる気もします。私のリスニングが間違っているかもしれません) そして、大学所属のセントマーガレット教会には、第二次世界大戦で命を落としたセントアンドリューズ大学ゆかりの人々の名前を記帳し
たものがあるんだけど、なんと、それは厚さ4インチ(12センチぐらい?)にもなるという・・・。

学業半ばにして戦争に行き命を落とした学生がイギリスにも沢山いたのですね。もし、戦争がなかったら、彼らの人生はどんなものになっていたのでしょう。