イギリス紀行 (3)-セント・アンドリューズ:その3(2004年8月)

セントアンドリューズ城は、今は「遺跡」でしかなく、そのごく一部しか残っていないのですが、昔はかなり大きなお城でした。で、これまた「まじっすか?」というような出来事が、「宗教改革」時代にあったのでした。

それは16世紀半ばのこと。あるプロテスタントの学生が、反カソリック的運動をしていました。そして、またしても、その学生は「間違って」燃やされてしまったのでした。それを、当時司教としてカソリック教会から派遣されてきていた何とか言う人が、城の窓から、「や~い、間違って燃やされてやんの!」と、バカ笑いしながら見ていました。

プロテスタントの学生たちは怒り心頭。城を襲い、城を占拠しました。籠城は1年近くも続いたとか・・・。

当時のヨーロッパの政治状況は、プロテスタント国とカソリック国が互いの勢力を伸ばすために同盟したり決裂したり・・・。カソリック国フランスとスコットランドは、イングランドと対抗するため、「つるむ」傾向にあったのですが、この時もフランスから沢山の軍艦が城を海側から包囲しました。

それでも城は落ちない・・・。

ガイドの学生の説明によれば、籠城してる側も食料が底をついてきたので、城からトンネルを掘って町に出ようと考え、他方攻める側は城がなかなか落ちないので、トンネルを掘って城に侵入しようとしてトンネルを掘り、それが偶然!地下で、ご対面!

城の売店で入手したパンフレットによれば、なかなか城が落ちないことに業を煮やしたカソリックの人々が、トンネルを掘って城に侵入しよう!とトンネルを掘り出した。その情報をゲットしたプロテスタント側が、侵入を防ぐために、城の中から「音」を頼りにトンネルを掘り進み、見事、地価でご対面!

いずれにせよ、かなりドラマティックではあります。そして、このトンネル、今でも残っていて(>実はその存在は忘れられていたのですが、後の時代になって家を建てるために地面を掘った時に見つかって修復されました)、そこに入って歩くことも出来るんです。城の方の入り口から、両者が「ご対面」したところまでですけれど。

いや~、宗教を巡る人々の「対立」ってすごいですよね。宗教は人々を「生き易く」 するためのものだし、たしかにそういう役割は果たしている訳ですが、いや、だからこそなのかもしれませんが、別の教義との「対立」が起こった時の、憎悪の激しさというのはとてもすごい。

私たちもこのトンネル、入って歩いてみましたが、まぁ、よくこんなもん掘ったよねぇ・・・って感じです。イギリスの歴史には、宗教がらみの(>と言ってもそれが政治や権力と密接に結びついているのだけれど)流血の惨事がそこここに散りばめられているのです。

イギリス紀行 (2)-セント・アンドリューズ:その2(2004年8月)

案内をしてくれた大学生は、毛羽立った赤いガウンを着てました。これ、大学と修道院がほとんど同義であったような時代、セントアンドリューズの修道僧が着ていたガウンのデザインをそのまま取ったらしい。

セントアンドリューズ大学の学生は、いずれ宗教上の指導者になるということで、ある種「特権階級」でもあったので、「赤いガウンを着た学生を轢いてはいけない」みたいな法律が出来、それが今でも生きているとか・・・。

それはともかく、このガウンをめぐっては「アカデミック・ストリップティーズ」というのがあるんだそう。セントアンドリューズ大学は、3年間で修了するイングランドの大学と異なり、4年制です。

1年生は、ガウンを首のとこまでピッチリと締めて着る。2年生は首のとこでちょっと緩めて着る。3年生になると、文科系の学生は左肩を出して着る。その心は「文科系の学生はマルキスト(>左翼=レフト)になるから」。理科系の学生は右肩を出して着る。その心は「科学者はいつも正しい(>ライト)から」。そして4年になると両肩を出してだらしない感じにだら~っと着る。

この習慣は今でも残っているらしく、今ではミサに出る学生の数は減ったとは言え、日曜日などのミサでは、みんなガウン着用で出てくるので、誰が何年生なのか一目で分かるとのこと。

その昔は、学生にとって教会のミサに出ることが「義務」でありました。セントアンドリューズ大聖堂は海岸にあるんですが、そこにはかなり長い桟橋があります。そして、ミサに出た学生はその桟橋の上を端まで歩いてまた帰って来なければならなかったそうです。

その理由は諸説あるらしいのですが、一つには、学生に桟橋の上を歩かせれば、大学当局がミサに出た学生の数をそこで勘定できるのでそのため、というもの。また別の説では、当時、学生は宗教の「修行」をしてたので、酒を飲んではいけないことになっていたのですが、強風の吹く細い桟橋をガウンをはためかせながら歩くと、前夜
酒を飲んだ学生はバランスを崩して落ちてしまう。それをチェックするため、ということになってるそうです。規則があれば破るものが必ずあり、海の上に赤いガウンがプカプカと浮く・・・。

セントアンドリューズ大学は3つのカレッジが15世紀だったか16世紀だったかに統合されて出来たそうなのですが、それらのカレッジの一番古い物の庭には、なんだかの木(>名前聴き取れませんでした)が植えられています。その木は、「これがあると爆弾があたらない」というジンクスがある木とのことで、第二次世界大戦中にウィン
ストン・チャーチルが、イギリス全土のあちこちに植えるよう命令したそうな。(> ほんまかいな?)

そのおかげで、このカレッジも爆撃を受けたんだけど、爆弾は庭に木を植えておいたおかげで、建物をわずかにそれて落ちたんだとか・・・。

戦争というのは洋の東西を問わず、人を非科学的にするとも言えるし、明日の命をも知れない状態にある時、人はどんなことにでもすがりたがるとも言えます。

セントアンドリューズ大学では、男子学生と男性スタッフの3分の2が命を落としたとその学生は言っていました。(>かなり多すぎる気もします。私のリスニングが間違っているかもしれません) そして、大学所属のセントマーガレット教会には、第二次世界大戦で命を落としたセントアンドリューズ大学ゆかりの人々の名前を記帳し
たものがあるんだけど、なんと、それは厚さ4インチ(12センチぐらい?)にもなるという・・・。

学業半ばにして戦争に行き命を落とした学生がイギリスにも沢山いたのですね。もし、戦争がなかったら、彼らの人生はどんなものになっていたのでしょう。

イギリス紀行 (1)-セント・アンドリューズ:その1(2004年8月)

夫が長期海外研修中なので、夏休み、Qを連れてイギリスに行くことになりました。Qは2歳半~4歳半まで単身子連れ留学した私と一緒にイギリスに住んでいたのですが、この時の暮らしはQにとっては、かなり辛いものだったみたいです。よく「子どもは適応能力が高いから外国に行ってもすぐ慣れる」といいますが、実は、新しい環境に慣れるというのは、子どもにとっても大きな負担になるみたいです。もちろん、子どもにもよるのでしょうが。

なので、これまでは、私がイギリスに行く時に「一緒に行こうよ」と誘っても、「うん」とは言ってくれなかったんですよね。

でも、今回は、「しばらくぶりに父親に会える」ということもあったし、中学生になって英語を習い始めたということもあって、ついに一緒にイギリスに行くことになりました。かつては、イギリスの保育園で英語で何とかやってたQではありますが、「完璧主義者」のきらいのあるQは、「自分の英語はパーフェクトではない」という思いをずっと胸にいだいていたらしく、彼にとって、英語はけっこうトラウマになっていたみたいです。

少しでも英語をやっておけば、イギリスに行った時に楽かなぁというのもあって、「英会話やってみる?」と聞くと、「うん」というので、私の行っている学校で何度か個人レッスンを取らせました。「学校の英語より楽しい」と言って喜んで通っていたので、帰国後も、少し通わせ続けてみようかなと思ってます。なにせ英会話って「お高い」ので「家計の許す範囲」でしか通わせられませんが、たとえ「細々」でも、大学入学ぐらいまで続ければ、「それなり」の結果は出るでしょう。

という訳で、超ドロ縄で英会話レッスンに通ったQと、出発当日までドタバタ仕事を片付けていた(>そして片付かなかった)私と、そして、ついでに私の母と、3人でイギリスに向かいました。

ロンドンからの乗り継ぎ便が遅れに遅れ、キャンセルになる飛行機も相次ぐなか、私はと言えば「夫が空港に迎えに来てくれるしぃ」と安心しきっていて、最初の日に泊まるホテルの名前を書いたメモを家に忘れてきてしまっていて、もし、ここで夫に会えなかったらどうなるんだ!!!!状態でしたが、私達の乗る便の前の便や後の便がキャンセルになる中、奇跡的に飛んだ飛行機に乗って、予定より2時間以上遅れて夫との再会を果たすことが出来ました。

その後、最初の数日はみんなでスコットランドを旅しました。

まずは、セントアンドリューズ大学。ここでは、学生が案内役となって、セントアンドリューズ大学と、そして大学と「宗教」によって深く結びついていたセントアンドリューズ城、セントアンドリューズ大聖堂を案内してくれる「ツアー」に参加してみました。

セントアンドリューズ大学はスコットランドのオックス・ブリッジみたいな感じの大学です。歴史が古くて伝統もあるし、格式もある。イギリスの多くの大学がそうであるように、この大学もキリスト教の聖職者の育成と関わって出来た大学です。

世界史で「宗教改革」というのを習いましたが(>プロテスタントの人々は、カソリックの聖職者を腐敗していると批判したのでした。カソリックの聖職者(>の一部)は「天国に行きたければこのお札を買いな」などと金儲けに走ったりしていたらしい。すっごいアバウトな説明ですが)、「宗教」をめぐる争いというのは、昔も今も非常に激しいものなのですね。セントアンドリューズ大学でも、この「宗教改革」の嵐の中で、いろいろな出来事がありました。

そもそもセントアンドリューズ大学が出来た当時は、キリスト教と言えばカソリックしかなかった訳ですが、この「宗教改革」の時代には、プロテスタントの学生も入学して来て、プロテスタントの教義を説いたりしたのでした。そんな学生の一人、イニシャルがP.H.の学生(名前を聞いたが忘れてしまった)は、大学当局によって、「間違って」燃やされてしまいました。

「おいおい」って感じですが、今でも社会問題となっているインドの「ダウリ死」 (>妻の持ってきた持参金(=ダウリ)が少ないと言って、じゃあ、嫁さん焼き殺して次の妻をもらうか、と嫁を焼いてしまう)においても、「嫁が台所仕事してたら間違ってサリーに火がついちゃったんですよ~」と言って、家族は、これを「事故死」で片付けようとするらしいのですが(>そして「事故死」で片付けられてしまうことも多いみたいなのですが)、「宗教改革」時代のスコットランドにおいても、「あ、間違って人に火つけちゃったら死んじゃったぁ」と片付けていたんでしょうか。

で、その焼き殺されたイニシャルP.H.の学生の「うらみ」が今でもセントアンドリューズの町には息づいているのです。セントアンドリューズ大学に所属する聖マーガレット教会前の歩道の上の、その学生の焼かれた場所(>と言ってたと思うがリスニング能力に今ひとつ自信がない)には、「PH」と刻まれており、そして、その教会の塔の「PH」がちょうど見える位置の壁にP.H.さんの顔がほのかに浮き上がっています。で、歩道の上の「PH」を踏むと、P.H.さんはそれを塔の上から見下ろして睨む・・・。

この「PH」を踏んでしまった学生は「試験に落第する」というジンクスがあるそうで、この「のろい」をとくためには、5月1日の夜明け前に海に入るしかないのだそうです。5月のスコットランドと言えばまだ肌寒く、しかも夜明け前ともなれば、非常に寒い・・・。5月1日には、くちびるを青くしたがたがた震えている学生がいっぱい海に入っているそうです。いやはや・・・。

ピアノと私 (4)-「ピアノ≠音楽」という公式 

小学校1年生の時、引越しをすることになり、U先生のもとを離れました。次についたのはU先生にご紹介いただいたY先生。

このY先生のもとには、後に小学校5年生の時に「M新聞音楽コンクール」で全国優勝を果たすことになるSさんがいました。彼女は私より1歳年上。発表会の時、1つ上にとてつもなく上手な子がいる。年齢が1つしか違わないのに、とんでもない「差」がある。子ども心にも「ピアノが弾けるってああいうことなんだ」と自分との「違い」を感じていました。

このSさん、お勉強の方もものすごく出来て、偏差値は75とかそういうレベルで、大学受験の時は、「T大でもG大でも合格確実」と高校の先生におすみつきをもらい、お勉強の道に進むか、ピアノの道に進むか、迷った上でピアノの道に進まれました。(結局G大には進まれず別の音楽大学に進まれ、今母校で教授をしておられます)。しかも美人で天は「ひいき」する人には二物も三物も与えるのね~という感じですね。

発表会の時には「○年生の××さん」とプログラムに名前が出るので、私としてはもう、1歳年上の人がこんなに上手に弾くんだなぁ…と、これまた「無力感」の中で、ピアノを続けていました。しかも、このSさんの妹さんのNさんもとても上手で、このNさんは私より2歳年下だったのだけど、これまた、私よりはるかに上手で、「2歳年下の人がこんなに上手に弾くんだ…」と、いう感じ。このNさんも音大に進まれました。卒業後は音楽の道には行かなかったようでしたが。

そして彼女たちの上手さは、単なる技術的な上手さではなく、ちゃんとした「表現」の出来る本物の上手さでした。だから私はこの姉妹の演奏は好きでした。それぞれに個性のある演奏でした。そう、それは、ちゃんとした「演奏」でした。そして「芸術」でした。

「競争心」を抱く、あるいは「比較する」なんてこと自体が「間違い」なくらいこの姉妹は上手かったしステキな演奏をしていた。まあ、そもそもピアノは「競争」ではなく(>そういう面が全然ないとは言わないけど)、「その人その人の音楽を創っていく」ということだったりはする訳ですが、当時の私にはそういうことは分からない。

本当は「喜び」を持って弾くことが出来たはずのピアノ…もっと楽しめたはずのピアノ…。

でも、子どもの頃の私はそれに気づくこともなく、ただ無感動に不感症気味にピアノを弾き続けていました。

ピアノと私 (3)-「教則本の進度」=「上達」という誤解 

昨今では「今バイエル○番をやってます」だの「今ツェルニー30番の□番をやってます」ということが即「ピアノの上達の度合い」…と思う人もいないと思いますが、昔のピアノ教育はほとんどの先生が同じ教則本を同じ順番で積み上げて教えていたので、今何という教則本の何番をやっているか…ということが、「ピアノの上達」と受け取られていました。

もちろん、これに「真実」がない訳ではありません。教則本を弾き進んで行くことは間違いなく「上達」の道を歩んでいるのです。

でも、本当のピアノの上達は「何という教則本の何番を弾いているか」ではなく、「何という教則本の何番をどんな風に弾いているか」ということの方にこそ表れるのだと思います。

で、親たちも「○ちゃんはもうツェルニー30番をやっている」とか「△ちゃんは×年生なのにバッハのインベンションに入った」とか、そういうことをウワサしあったりして、それが子どもの耳にも入ってくる。

今の私なら「けっ!」と思いますが、子どもの頃の私は、そういうウワサ話に「私って進みが遅いのね(>才能ないのね)」と、何となく「無力感」を植えつけられていました。

私のピアノは弱冠4~5歳のころから、常に「無力感」の中でただよっていた…という感じです。(>く、暗い!)

ピアノと私 (2)-「才能があるかも」という誤解 

私がピアノを習い始めた頃は「音感がいい」(「音当て」が上手。聴音が得意)=「音楽の才能がある」という「誤解」がはびこっていた時代でした。

で、私はこの「音当て」というのが大変得意だったんですね。M先生の次につこうとしていたU先生は、「この子の音感は私なんかよりずっと良い。本当にうらやましい。私が教えるのはもったいないからもっと良い先生についたらどうか」と両親に勧めたのでした。

でも、私のところは母親が働いてたし、「良い先生」のとこまで電車に乗って連れていくことなんかは物理的に不可能だったので、そのままU先生のところでお世話になりました。

で、私最初のころはガンガン練習してガンガンものすごい勢いで教則本を飛ばしてたんですね。ところが飽きてきたのか、息切れしたのか、曲が難しくなってきてそう簡単には弾けなくなってきたためなのか、自分で思い出して見ても理由はよくわからないのですが、突然の「減速」。

「才能あるかも」から突然「普通(>普通以下?)」の生徒になってしまったのでした。「3歳で神童、4~5歳で凡人」ってあまりにも悲しくないかい?って感じですが。

この経験は私にとってもけっこう「心の傷」になってたりはします。

先生や親が「がっかり」してるのも何となく子ども心に感じて、でも、じゃあ、「再び心機一転頑張ろう!」というのでもなく、なんとなくだらだらとそのままピアノを続けてました。「4~5歳で挫折!」ってのも随分と「早熟」であったりはしますが、これが私の人生最初の挫折かな?

ピアノと私 (1)-「結婚」という「キャリア」の罠

私がピアノを習い始めたのは3歳の時。最初は近くの若い女性のM先生に習いました。とても優しい先生でピアノを習いに行くというより、ピアノで遊んでもらうために行くっていう感じで楽しく通っていました。

…ところが!!!!

M先生が「結婚」される…ということで、お引越しもされることになり、その教室は閉鎖になってしまいました。突然放り出された私…。

まぁ、この後別の先生につくことにはなるのですが、私の幼い心の中には、「女性の先生は信用ならん。いつ結婚してどこかに行ってしまうとも限らん」という、「おやじ」あるいは「PTAのうるさい教育ママ」みたいな不信感が根付いた面があったりします。(>この後、5歳の頃、英語の教室にも通ったのですが、それも先生の結婚で閉鎖になったのでした)

「結婚」されたことは、その後M先生がピアノの先生を続けていらっしゃったとすれば、M先生の音楽を深めたという面もきっとあったでしょうし、続けてらっしゃらないとしても、M先生が個人として幸せになられたというたいへんお目出度い出来事ではあったのですが、「一生徒」としての当時の私にとっては子ども心に「見捨てられた」みたいな気分があったかも…。

M先生の長い一生の「キャリア」の中では「結婚」と「引越し」はほんの小さな「一こま」にすぎないのだけれど、それぞれの生徒にとっては「先生がいなくなる」というのは「大事件」だったりはします。

私のフィアンセ (3)-そうだったのか!

「フィアンセ」は、実は2004年のVa大会で踊るべく、いろいろと調べ始めたのですが、すぐに頓挫・・・。でも、「飛び物」が多いのは1歳でも若いうちに、との考えで、自分の中では「フィアンセ」を踊るつもりでいました。

ところが、実際には、Va大会申し込み直前にレッスンでちょっとだけサワリを習った「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」の中のVaが、すっごく可愛くて楽しくて、突然方針変更してそっちにしてしまいました。(>しかし、実際には超苦戦)

で、「フィアンセ」はそのまま宙に浮いた形になっていた。

「フィアンセ」頓挫の一番大きな理由は、「これって、どういうシチュエーションで踊られる何と言うバレエのどこの場面よ?」ってのが今ひとつはっきりしなかったこと。

なんですが、私には「バレエ物知り事典」のようなレッスンメイトがいて、彼女に聞いたところ、一挙に謎が氷解。

「パ・ド・フィアセンセ」は「海賊」じゃなくて「パヤデール」の中の「ガムザッティ」のVaのことだったんです。うまいことソロルとの婚約にこぎつけたガムザッティが、「わーい、わーい、婚約だぞー!」って踊るやつです。

なんだ、「フィアセンセ」ってまんまぢゃん!

もちろん「海賊」の女性Vaにこの音楽を使うこともあるけれど、「パ・ド・フィアンセ」という題名がつくからには、これは「ガムザッティ」ということ、とのこと。

おぉ、そうだったのか! ようやく胸にストンと落ちたぞ。

よし、これで「フィアンセ」を踊れる!

・・・という訳で、2005年はポリープ切除や論文の勉強でVa大会をパスしてしまったのですが、R先生にお願いし、参加費を納めて練習だけ参加させていただき、2006年のVa大会目指して、1年がかりで、「フィアンセ」を攻略することにいたしました。

すでに、1年前に振りが入ってる状態だぞ! あとは踊り込むだけ・・・・。1年間あるんだから、1000回自習しよう!と心に決めたのでありました。

私のフィアンセ (2)-とりあえず『海賊』のストーリー

とりあえず「フィアンセ」は『海賊』の中のVaということで『海賊』のストーリーをおさえておきましょう。

佐々木涼子『これだけは見ておきたいバレエ』(新潮社)によれば、このバレエの原作はイギリスのロマン派詩人バイロンの長編誌『海賊』。ただし、バレエの筋書き自体は原作(故国に残した妻メドーラへの想いを胸に秘めた海賊)とはかなり違ってるとか。

で、バイロンはトルコの支配から、ヨーロッパ文明発祥の地ギリシャを救うためにギリシャ独立戦争に参加したんだそうな。この「ギリシャ対トルコ」の構図を知らないで見るとこのバレエは理解できないんだって。

それはともかく、この本では「降付:マリウス・プティパ、音楽:アダン/プーニ/ドリゴほか」ってなってるけどさ、この「ほか」ってとこが知りたいのよね。(>私の場合)

そして、初演は1889年サントペテルブルクとなってるんですが、パリ・オペラ座と書いてある本もある。

で、「あら筋」はと言えば、海賊コンランッドと手下ビルバント&アリの3人が難破して海岸に打ち上げられたところをギリシャの娘が助ける。その1人メドーラとコンラッドが恋に陥ってしまうんですが、そこにトルコ軍が来てギリシャ娘が奴隷商人につかまってしまう。

で、奴隷市場であちこちからつかまえてきた奴隷達を競売してるとこにコンラッド達があらわれてメドーラたちを助けるんですね~。

で、隠れ家の洞窟で海賊たちが勝利を祝い、コンラッドとメドーラが愛を語る…。となると、「フィアンセ」が入るのはやっぱこの場面ですよね。きっと。

でも、娘達を連れて国に帰るか、自由の身にしてあげてギリシャに残していくか、で仲間割れ。コンラッドが薬で眠らされている間に「奴隷は奴隷だろ。海賊としては連れて帰るべきだろ」と考える手下がメドーラを奴隷商人の手に渡してしまい、メドーラは太守のハーレムへ。でも、巡礼に変装した海賊たちによって救出され、一同は無事船出する。

これが『これだけは見ておきたいバレエ』の中での荒筋です。

細かいところで多少違っているバージョンもあるのでしょうが、「あら筋」としては、おおむねこんなもんだと思います。

私のフィアンセ (1)-いきなり謎にぶちあたる 

「フィアンセ」は『海賊』の中のVa…のはず…。なんですが、幕物の中で、これを女性Vaとして採用してバレエ団って、実は少ないみたい…。

『ク○ラのバリエーション・レッスン』の中では「海賊のVa」としてこれが入ってるから、Mバレエ団の『海賊』を見れば、グランの中でこれが採用されてたりする訳?
 

そもそも歴史的には一体どこのバレエ団がどんな経緯で採用したんだ!!!!

それに、「フィアンセ」って、『バヤデール』の「ガムザッティ」と同じ曲ですよね。誰がいつどんな理由で、これを『海賊』にも利用することにしたんだ。それとも、その経緯は逆だったのか????

で、そのことから考えれば、作曲者はミンクスなんだと思うんだけど、『海賊』って何人も作曲家の名前が羅列してあるけど、ミンクスの名前は入ってない…。(>まぁ、多くのバレエ団でこのVaを採用してないってことかもしれないんだが)

…という訳で、「調べよう」と思った矢先から、謎にぶちあたってしまいました。

まぁ、すべての謎を解くのは無理として、自分が踊るためにすべき「作業」のために特のが必要な謎としては、とりあえず、以下の2つ。

謎1:『海賊』の中でこのVaを採用しているバレエ団はどこか。(>映像を見るのに必要)
謎2:「フィアンセ」の作曲者は誰か?(>楽譜をゲットするのに必要)