舞台を重ねる (2)-R教室での2回目のVa大会:ポアントで「コッペリア」 

で、そうこうしているうちに、Va大会の申し込み用紙が…。

かつてQを出産して2年後に1回出たことのあるVa大会。あの時は大人のクラスからはたった1人の出場で、しかも、まだまだ育児に振り回されていたので、本当にドタバタの中で無理矢理出てしまったVa大会でした。

当時はそもそも大人のレッスンではポアントを履く機会がなかったので、当然のことながら私はバレエシューズでの出場でした。

でも、今度は「大人のポアント」が出来たので、履ける人はポアントで出場するということ。しかも、大人も何人か出場するということで、心強い。

何にしようかなぁ…と思ったのだけれど、N教室への入会待ちで、カルチャーに通った時に練習した「コッペリア」なら一度振りを覚えたから楽かなぁ…と思って、先生に「コッペリアはどうでしょう?」と聞くと、「いいんじゃないかしら」とのこと。

よし! 頑張るぞ!

…ところが、振り写しが始まってみると、カルチャーで習った振りと、R教室で採用している振りが全然違う! あちゃ~!

で、一から覚えることに…。

R教室の振りは、ず~っとポアントで立ってるやつです。ひゃ~、きついよぉ。でも、先生は、「ず~っと立ってる方が立ったり降りたりするよりずっと楽なのよ」とおっしゃる。うぅぅ、ほんとにこんなにずっと立ってることが出来るのか? こんなはずではなかった!

「やれば出来る」というか「やらなければいつまでも出来ない」というか、それでも、練習を重ねているうちに、だんだん、ずっと立ってるのがあまり辛くなくなってきました。

振りは、ずいぶんと簡単にしていただいていて、難しい大技は全部カットでしたが、それでも私には充分難しく、かなり「必死の形相」で踊っていたのではないかなぁと思う。

前回は、巻スカを買いに行く余裕もなかったけれど、今回は、巻スカも用意周到ちゃんと用意することが出来ました。うす紫色のノースリーブのレオタードに、同じ系統の花柄のスカート。

この会は「お勉強会」ということで、写真もビデオもない、簡単な会なので、当時の私がどんなにひどい状態で踊っていたかという「証拠」はないのですが、今、つらつら思うに、かなりのひどさではなかったかと思います。でも、とにかく、ポアントで Va(の簡単バージョン)を踊る機会をいただけたのは、私にとっては、とても大きな収穫でした。

「ポアントで踊る」だけがバレエじゃないけど、「ポアントで踊る」と、やっぱりなんとなく「バレエをやった!」という気持ちになる…というか。とりあえず、ポアントで踊ることが出来た!という充足感や満足感がありました。

A先生からは、「この踊りを通じてずいぶん脚が強くなりましたね」と言っていただきました。「まだまだ」なバレエではあったし、あるけれど、こうやって舞台を経るごとに、一つずつ階段を上がっていける…ということはあるのだと思います。

大人が1人じゃないっていうのもとてもうれしかったです。また、イギリス留学の前は夜のクラスに出ていたのですが、帰国後は朝のクラスに出るようになって、すると、みなさんでお昼を一緒に食べたりする機会もあり、友達が出来たのもうれしかった。みなさん、バレエ体温の高い方ばかりで、色々バレエ談義出来るのも楽しく、また、子育ての情報交換が出来るのも「子育て初心者マーク」の私にはありがたかったです。

舞台を重ねる (1)-R教室の「大人のポアント」レッスン 

なんとか無事にN教室で舞台復帰を果たし、その後も週1回を何とか確保…という感じの細々ペースではあったけれど、淡々とレッスンを重ねていました。

そうこうしているうちに、R教室に「大人のポアント」のレッスンが始まったんです。「大人でもポアントを履きたい!」と、レッスンメイトが先生に訴えて、作ってもらったクラスです。通常のクラスの後に希望者だけ、別料金で15~30分のポアントのレッスンが提供されることになったんです。

バーに掴まって、ポアントワークを基礎から教えていただきます。これ、私、すごくためになりました。

そもそも、出産後レッスン復帰してからは、ポアントを履く機会そのものがほとんどなかったので、ポアントを定期的に履けるということ自体がうれしかった。

で、私の場合、ポアントワークは、自分で「大人のポアント基礎」のコースにも通ったりはしていたけれど、基本的には「見よう見まね」で身につけてきた部分が大きく、「よく分かってない」けど「なんとなくやってる」というのがいっぱいあったんですよね。

そんな訳で、ポアントワークを「一から」教えていただけるというのは、とても貴重な機会で、「あぁ、そうだったのか。間違って覚えていた」ということがいっぱいありました。

ただ、「えいや!」とやってしまうことの「良さ」も皆無ではなく、私は「脚が強い」とよく言われるけど、それは多分、T教室で「えいや!」と量をこなしていたため、というのがあると思うんです。先生達は「なんとなく」でもいいから、とにかく動いて!とよくおっしゃるけれど、私が、ちゃんとは動けなくても、なんか良く分からなくても、レッスンで「なんとなく」動けるのは(>ひどく間違っていたりするけど)、それはやっぱり、「えいや!」とやってきた結果身につけてきたことだと思うんです。

基礎を丁寧に重ねている、ということが、「遠くへ」行くための「近道」ではあるのだと思うけれど、先に「遠くへ」行ってから「少し後戻りして」もう一度足固めする、というのも、それはそれで悪くない。

あるいは、「仕方ない」。基礎から1つずつ一貫して上に導いてもらえる教室にずっと所属し続ける、ということが大人には出来ないことも多いから。転勤・引っ越しなどで、「えいや!」の教室しか通えなくなって、その後また事情が代って「基礎をしっかり」の教室にしか通えなくなって…というような「ジグザグ」が避けられない場合も多い。

そんな時、それぞれの良さを上手に「結び付け」そして「積み重ねて行く」というのが大事だと思います。

私の場合は、とりあえず、行ける能力がないのに、しゃかしゃかと「遠くへ」行ってしまったので、道が穴ぼこだらけで、後戻りして、その穴を一つずつ埋めていくしか他に手がない…という感じですね。

R教室で、本当に基礎から大切に大切に一歩ずつ進んでいるレッスンメイトがいて、時々、「私も彼女みたいに基礎から一歩ずつ積み重ねて進んできたかったなぁ」と思うこともある。でも、後戻りは出来ないし、私は私で、「えいや!」とやらせてもらってしまった「良さ」を何とか生かしていくしかないのだと思う。

…という訳で、このR教室の「大人のポアント」のレッスンは私にとってはとても大切なものとなりました。

イギリス紀行 (11)-センチメンタルジャーニー(2004年8月)

幼いQと2人で2年間の留学生活を過ごしたM。ここでも数日過ごしました。

その昔、Qが通った保育園にも行ってみました。もうあれから10年も経つんですね。保母さんもすっかり入れ替わってしまっていました。そして、以前にはいなかった保父さんが2人もいました。イギリスでも女性職への男性の進出が進んでいるんですね。

イギリスでの思い出が、Qにとっては「辛いもの」だったみたいなので、帰国してからあまりイギリスの話をしませんでした。なので、Qはイギリス時代のことをほとんど覚えてないのですが、毎日通った保育園はさすがに覚えていたみたいです。

疲れて食事の用意をする元気もない時なんかに良く行ったマッ○にも行きました。日本にいるとマッ○で外食って、よっぽど時間がない時って感じですが、イギリスにいると「マッ○ならとりあえず安心(>味的に)」って感じなのね。

イギリスで外食すると、えらい高いお金取られて(>1000円以上)、「そりゃ~、ないぜ!」っていうことがしばしばあるのです。なので、たとえマッ○でも、「とりあえず安心」なんです。

日本の外食文化は、これはもう、世界に誇っていいですねぇ。日本だったらどこでもあるちょっとした喫茶店のランチセットなんて、「輸出」したら、すっごい受けるんじゃないでしょうか? こういう「手ごろ」で「リーズナブル」で、しかも「美味しい」ものって、イギリスにはないんです。

ここのマッ○では、帰国前にQの友達を招いてパーティをしました。マッ○では、お誕生パーティのセットがあって、子供が飽きないようにお姉さんやお兄さんがゲームも含めて、上手に演出をしてくれるんです。で、親は親でおしゃべりする。

私の友達については、自宅(>と言っても寮の部屋)でフェアウェル・パーティしたんですが、Qの方はマッ○に「お任せ」してしまいました。

そして、2人で暮らした大学の寮も外からですが、眺めました。私たちが住んでいた部屋も、「あそこだよ」と…。ここは学生の入れ替わりの時期などに空きがあれば借りることもできるので、いずれまたQと来て泊ってみるのもいいかもしれないと思います。

2人でよく行った公園にも行きました。新宿御苑より広いかも…っていうぐらい大きな公園です。この空間で遊べたのはすごい贅沢だったなぁ…と思う。ある雪が降った日の朝、Qが歩いて保育園に行きたいっていうので、雪の公園を横切って、だ~れも歩いてない真っ白な雪の上を2人で足跡をつけながら1時間近く歩きました。それこそ「冬ソナ」のオープニングのところでチュンサンとユジンが足跡つけながら歩いたみたいに…。あれって、私たちにとっても「原風景」なのかなぁ…。

春も夏も秋も冬も…。ほとんど毎週のように通った場所です。

そして、小さい頃よく通った図書館。ここにも行きました。ここの子どもの本のコーナーで本を読んだり、布で作ったブロックがあって、これで「お家」を作って遊んだり…。

この夏は、私が大学で用事をしている間、Qは夫と、ここの図書館で「夏休みの宿題」をやってたみたい。19世紀末だか20世紀初頭だかに建てられた、歴史ある図書館で、リーディング・ルームもとても雰囲気があります。

Mでの2年間、2人でよく頑張りました。私も大変だったけど、Qはそれ以上に大変だったと思います。

イギリス紀行(10)-グリニッジ(2004年8月)

イギリスに行く前に、Qに「イギリスでどこに行ってみたい?」と聞いたら、「グリニッジ」という答えが返ってきました。お、渋い!

なので、行ってみました。

今は、ここは天文台としては使われていませんが、17世紀、チャールズ2世の時代からつい最近まで、ここは王立の天文台でありました。

グリニッジ天文台と言えば子午線の始まり(東経・西経0°)が通っている場所として有名です。

「経度」って、今私達は当たり前みたいに使ってますが、実は、この「経度」の発見って、とっても大変なことだったんだそうです。

ヨーロッパ人が「大航海時代」に世界各地を「探検」していた頃、実は、地球の全体像は分かっていませんでした。だから、航海も「手探り」の部分がありました。自分達の「現在地」を知るっていうことも、全体像が見えてないので、とても難しいことでした。

「緯度」の方は、比較的簡単に発見できました。星の高度との関係で、自分達の位置を計ることが出来たんです。

でも「経度」の方はそう簡単にいかなかった…。そこで、「経度」というものの測定方法を巡ってさまざまな試みがなされたのです。そういう営みの結果として、私たちは、「日本では東経135°の明石の時間が標準時」みたいに、平気で「経度」を使って、ある場所の位置関係を叙述しているのです。

また、天文学というのも、過酷なライフスタイルを強いられる天文学者の営々たる営みによって発達したものでした。グリニッジ天文台に居住する王室直属の天文学者達は、星を観察するために昼間寝て、夜一晩中仕事をするという、生活を強いられたのです。

科学の発達の後ろにある、たくさんの人類の「努力」の総量って、本当にすごい!

Qは子午線をまたいで写真を取り、「世界を股にかけた男」とご満悦でした。

イギリス紀行 (9)-ピットロッカリー:その2(2004年8月)

この地で泊ったのは、何と「城」です。昔の貴族だか何だかの「城」をホテルに改造したもの。

入り口の門の横には「門番」の家がある。そして、そこからかなりの距離、山道を登ると山の上にお城があります。昔はここ、馬車で上がっていったんでしょうね。お庭もとっても広い。木も、「森」風に茂っています。

ロビーとか食堂も、もう天井が高くて豪華! ゴルフコースもテニスコートもあるという、本当に広い広い敷地の中にあります。

で、優雅な気分で眠りにつきました。

ところが、夜中、手の甲に「熱い!」と、タバコの火を押し付けられたような(>押し付けられたことないけど)熱さを感じました。電気をつけて手を見てみると、手の甲にうんと細い(>かなり細い毛髪くらい)トゲのようなものが垂直にささっている。

う、ハチ?

この「熱さ」は私、一度体験したことがある。ロンドンでバスに乗ってる時に同じように虫に刺されたんです。その時はハチだと思ってなかったんだけど(>あまりの痛さにバスを途中下車し薬屋に入って刺されたところを見せたら、店員さんが「この女性が虫に噛まれた(bitten)っていうんだけど、どの薬がいいかしら」と言ったので、「じゃ、これってアブ?」と勝手に思ってしまったというのもある)、もし、あれがハチでこれもハチなら、これは2度目…。ひょっとして私死んだりする?

で、みるみるうちに手の甲が赤く腫れてふくらんできた…。

なので、フロントに電話をしてみました。フロントのナイトポーターはなんだか頼りないやつで、「それは、スコティッシュ・ミッジだ。たいしたことない。それにここにはいずれにせよ薬は置いてない」とのたまう。

スコティッシュ・ミッジって何さ!と、この期に及んで辞書を引く。ミッジはmidgeだろう、と当たりをつけて引いてみると、大当たり! 「小昆虫」とのことで、ま、じゃぁ、そんなに害はないのかな?

でも、翌朝になってもまだ手の甲は赤い。で、頼りになりそうな執事っぽいおじさんに手を見せて事情を話す。すると、「それはハチだ。でも、まぁ、ハチさされは時間が経って治るのを待つしかないんだよね」と言う。なんだよ、ミッジじゃないじゃん!

どうやら、このホテルじゃ、ハチに刺されるなんてのは、珍しいことでも何でもないらしいです。まぁ、これだけ木や花があればそうかもしれないけれど。だったら虫さされの薬くらい用意しとけよな~と思う。ほんと、見かけだおしなんだから~。

洗面所に行ってぎょっ!とする。昨夜は真っ白でとっても清潔!と喜んで入ったバスタブの表面に一面の小さな黒い虫が…。ひょえ~、まさか、昨夜入った時も虫がいた? いやいや、そんなことはない…。夜の間に窓の隙間から入ったらしい…。しかし、それにしても。

で、ベッドの枕元にハチを発見。のたのた動いている。あれ、ハチって1回刺したら死ぬんじゃないの? Qの説によれば「それはミツバチ!」とのこと。まぁ、これはミツバチではなさそう。

しかし、ハチの毒というのはとても強烈。手首近くを刺されたのですが、指の付け根あたりまで赤く膨れました。

執事には「放っておくしかない」と言われたが、だんだんかゆくなって色も紫っぽくなってきたので、薬屋に行く。で、薬をつけたらすぐに腫れがひいてきました。何だよ、薬つければ症状軽くなるぢゃん!

なんだかな~…の貴族の館でありました。

貴族の方々もなかなか苦労が多いのね。広大な敷地の中に住むというのもハチ刺されなど色々な「危険」と隣合わせなんですね~。

イギリス紀行 (8)-ピットロッカリー:その1(2004年8月)

この地は、なんでも夏目漱石が帰国前に旅行して、イギリスはみ~んな嫌いだけど、ここだけは好き、と言った場所らしい。

お菓子を並べたような、メルヘンチックな、小さな可愛い町です。

特に観光の目玉となるようなものがある訳じゃないんですが、一応、この町の「売り」らしいエコロジーな水力発電所というのを見に行きました。

日本的な規模から行けば、あるいはイギリス国内においても、かなり規模の小さな発電所なんですが、ここの「売り」は、サケの川昇りを妨げない発電所作りをした…ということ。

川を塞き止めてダムを作ることになった時、サケが産卵のために戻って来られなくなったら大変…というので、横にサケのためのバイパスを作ってあるんです。川の中をサケが戻ってくる様子も見られるように、水族館のように、一部窓が作ってあります。

「水」の力ってすごいです。日本は山がちの国で、水にも恵まれているんだから、もっと水力発電を活用すればいいのになぁ。

イギリス紀行 (7)-ダンディ:その3(2004年8月)

ダンディで泊ったホテルは、なんだか妙に日本趣味でありました。

なにしろ、「ゆ」というspaがあった。まじで「ゆ」と書いてあるのよ。入ってみたかったんですが、結局余裕なくてペケ。

館内の装飾も日本趣味なベンチとか、植木とかがそこここにある。

そして、お風呂場は、シャワーのスペースにすのこ(!)が…。そして、バスタブとは別にシャワールームが…。

日本に行って、すっかり「日本かぶれ」になった人が、ここのホテルの経営に関わっていると見た…。

でも、「温泉」気持ちいいもんね。そして、お風呂も洗い場と湯船が別々になってるのは、清潔感あっていいよね。かぶれるのも無理ないわ…と思う。

私、イギリス暮し、他のことはぜ~んぶOKだけど、風呂だけは日本の風呂がいいもん。

この夏、イギリスは異常気象で、あちこちで洪水がおきました。私たちが泊っていたダンディでも一部で洪水が出て、子どもが排水の大きなポンプに吸い込まれ、あわや!というところで救出!というのが新聞に載っていました。

Qは「晴れ男」なので、我々は、その洪水の隙間を縫うようにして移動。雨には降られたけれど、洪水には出会わずにすみました。

イギリス紀行 (6)-ダンディ:その2(2004年8月)

ダンンディの地場産業は、麻織物。

イギリスには「産業考古学」といって、昔の産業のあり方を調べて、保存したりする、そういう学問領域があるらしい。

なので、あちこちに、昔のやり方でモノを作って見せてくれる「保存工場」「保存仕事場」や、昔ながらの輸送方法を見せてくれる「保存鉄道」や「保存運河」などがある。

ダンディにも、地場産業の麻織物工業の歴史を学ぶことが出来る博物館があった。

麻と言っても、実は2種類あるんだとか。リネンとジュート。ダンディの方のはジュートが中心だ。

これは、どっちかと言うと、「麻袋」みたいなのを作る、そういう粗い麻だ。

詳しいことはメモしてこなかったので忘れてしまったんだけど、ジュートがダンディの地場産業になるについては、色々と、「戦争」だとか、そういうものの影響があったみたい。

どこの国でも工業化の始動の時には「女工哀史」的なことがあるけど、この工場でも女性がいっぱい働いていたらしい。

博物館の売店での買い物というのもイギリス旅行の楽しみの一つだ。ここの売店には麻布や麻糸が売っていた。しっかりした麻布に刺繍してバッグを作ったら可愛いだろうな。そういえば、昔、麻紐でバッグを編んだなぁ…。

ちょっと手芸心をくすぐられて、布を買ったけど、そのままになっちゃいそう…。

イギリス紀行 (5)-ダンディ:その1(2004年8月)

ダンディはスコットランドではかなり大きな町ですが、日本のガイドブックでは取り上げられていることは少ないかもしれません。ここは昔造船や麻織物工業で栄えた町です。

ここで私たちは「ディスカバリー号」というのを見学しました。「ディスカバリー号」は、アムゼン対スコットの南極点到達の競争で有名なスコットが、あの探検に出発する前に船長として乗り込んだ船です。出航は1901年のことです。

スコットとアムンゼンの過酷な南極点到達の競争については、GRのThe Coldest Place on the Earthにも描かれていますが(「英語快読100万語」の の文献です)、この「ディスカバリー号」はそういう「探検」的な目的というよりは、「科学」的目的のための南極渡航のための船でした。

船には多くの科学者が乗り込み、南極における植物や生物の生態、磁気のありようなど、さまざまな科学的発見がなされました。非常に寒い中での化学の実験なんかも行われました。

理科の教科書に書いてあるようなことって、こういう「営み」の積み重ねの結果、発見されたことばかりなのですよね。もっと感動しながら勉強すればよかったわ。

今でこそ、南極ってどんなとこだかかなり分かっているけど(>分からないこともまだまだいっぱいあるんだろうけど)、そもそも、南極ってどんなとこ?って、誰も行ったことなければ分からない訳です。どんな生物が住んでいるのかも、どんな植物が生えているのかも・・・。どれぐらい寒いの?ってことも、どれぐらい広いの?ってことも・・・。

そういういろいろなことを、今われわれがちょっと図鑑や事典を調べれば分かるってのは、すごいことですよね。

そして、そういう発見のためには、船員たちを運ぶ「船」も必要でした。まだ体験したことのないような寒さに耐えられる船・・・それがなければ南極大陸に到達することは出来ない訳です。その船を作ったのがダンディの人々であり、その船が出航したのがダンディの港でした。

「ディスカバリー号」は、ケープタウンを経て、ニュージーランドに立ち寄り、南極海に入ります。途中、氷に閉じ込められて動けなくなったりもしました。科学者の船員たちは、長い厳しい船旅の多くの時間を研究に割いていましたが、彼らの精神的肉体的健康のため、音楽やスポーツも奨励されました。船にはオルガンなどの楽器や、スキーなどのスポーツ用具も積み込まれていました。

食事もけっこう良かったみたいです。「ディスカバリー号」の一つの特徴は、上の位の船員も下の暗いの船員も同じ食事だったということ。しかし、大勢の乗組員のための長い船旅のための食料は相当の量にのぼります。胡椒や塩の入っていた箱なんかも、「こんなに沢山あった」というのが分かるように展示されています。生きている羊なんかも持っていったみたい。当然そのエサも必要ですよね。

燃料の石炭もすごい量が必要でした。そして、石炭を釜にくべる続ける労働は大変過酷なものであったようです。科学者たちの探究心もすごいけど、こんな大きな船を動かし続けるために、石炭を釜にくべ続けた船員の苦労もすごいと思います。

イギリス紀行(4)-セントアンドリューズ:その4(2004年8月) 

セントアンドリューズといえば言わずと知れたゴルフ発祥の地。今ではお金持ちのスポーツっぽいゴルフも、その起源は羊飼いたちが、枝で小石をたたいて飛ばして遊んだことから始まったらしい。

ゴルフ博物館には、そんなゴルフの歴史がつまっています。

私自身はゴルフをしないので、よく分からないのですが、ゴルフする人にとってはセントアンドリューズは「聖地」。「セントアンドリューズに行くの」と言うとうらやましがられます。

ゴルフの発達はまた「道具」の発達の歴史でもあり、ゴルフボールもゴルフクラブも今の形になるまで、さまざまな紆余曲折、試行錯誤を経ています。そういう昔のゴルフの道具も見ることが出来ます。