もう一度舞台!(11)-舞台の上で「一人になる」ということ 

「列をそろえる」だのなんだのっていうのを、先生が指導してくれてなかったという訳ではありません。

この時は、なんと(!)、N先生の作品を踊ることが出来、N先生も直々に指導してくださることが多かったのですが、とにかく私がしょっちゅうダメ出しされるのは、「身体の向き」でしたから…。つまり私だけ「ヘン」だったのです。で、やっぱりそういう「そろってない」はちゃんと直してくださっていた訳です。

とにかく私「クロワゼ」が取れてなかったんですよね。T教室では一体どうやってたんだろ。まさかみんながアンファセで踊ってたってこともないと思うんだけど。

ほんと、「一体今まで私は何やってきたんだろ。バレエをやってきたと思っていたけど、何も分かっていなかった」って、すごくすごく悲しかった。

ただ、「みんなで心を合わせて」風のことはN先生はあまりおっしゃらない。

それは、「大人だから」ということもあるのだけれど、これも後になって分かったのだけれど、N先生は、一人一人の踊り手が「自立したダンサー」であって欲しいというタイプの振りつけ家なんですね。

だから、時々、「僕はもう振り渡したからね。あとは知らないよ」などとおっしゃる。また、、「僕は一糸乱れずそろってるような踊りは大嫌いなんだ」というようなことをおっしゃる。

きっと一人一人が、「自分はこの踊りをこう踊りたい」「自分はこう踊るべきだと思う」というのをしっかり持って、それがぶつかり合うところに生まれる「新しい物」が見たい…ということなんだと思います。

ただ、これについては生徒の間では、「そうは言っても我々はそれ以前的な段階なんだからさぁ…」というのがない訳ではなかったりする。このあたりは難しいです。

でも、私は究極的にはN先生のこの姿勢がとても好きなんだと思います。当時はそういう先生の方針がよく分かってなかったのですが。

で、とにかくこの時は、ひたすら「孤独」でした。T教室の発表会では「みんなで」踊る心地よさや楽しさがあった。でも、N教室では「みんなで」踊ってるのにいつも「一人」なんです。すれ違う時に誰も目を合わせてくれない。だれも微笑みかけてくれない。私の方から目を合わせにいっても目をそらされちゃう。笑いかけても私が笑ってるのを見てくれない。

まぁ、T教室の時は「幕物」だったから、そういう「絡み」も、ストーリーの中に位置付けてやりやすかったというのもある。ジゼルの友達として登場する時にお互いに手を振るとか、ジゼルがたおれちゃった時に「だいじょうぶかしら」と心配そうに顔を見合わせるとか…。

N先生の作品はストーリーがある訳じゃないから、「音楽と振り」だけを手がかりに踊っていかなければならない。そういう難しさもあったし、そういう中で他の人と「絡む」難しさもあったと思う。

で、その「一人」っていうのがまた辛かった。

これも「親切」でレッスンメイトが言ってくれたのだけれど、「自分が一番きれいに見える、ということだけ考えて踊ればいいのよ」って。これはもちろん「一理」ある。バレエにおいて「私が」という精神はとても大事。でもさぁ、これアンサンブルだしさぁ。ちょっとガックリきたんだけど、反論もできずぐっと言葉を飲み込んだままだったからよけいストレスもたまる…。

このレッスンメイトの言うことは、「間違い」ではないと思います。そしてこれは「大切」な考え方でもあると思う。結局、バレエというのも色々な「哲学」があって、それぞれが「自分の責任」で「自分のスタンス」を選びと取っていけば良いのだと思う。

子どもだと、このあたりは「先生の言う通りに」ってことで、一応「まとまり」がつくんだけど、大人の場合は、仕事の忙しさ、既婚・未婚の違い、子ナシ・子アリの違いなど、ライフスタイルやライフステージが違うから、物理的にバレエに割ける時間やエネルギーも違っていたり…ということも加わってくるから、こういう状態で「ひとつの作品」を踊るって、すっご~く大変。

まだ色々話せる友達もいなくて、でも、更衣室で別のグループで踊る人に「音楽も振りも好きなのに踊るのが辛い」ともらしたことがあります。そしたら、「音楽も振りも好きなら楽しいはずなのに…。色々考えないで楽しく踊ってしまえばどうかしら」と言われました。

そうなの、楽しいはずなのに楽しく踊れないの。でも、「音と振り」だけは「楽しもう」ってその時思いました。

本番直前には、みんなで自習したりして、とにかく「何とかしよう!」という雰囲気ではあったのだけれど…。そして、舞台袖で一緒に踊る人の一人が「みんな、笑顔で踊ろうね」と言って声をかけてくれた時には思わず涙ぐんでしまったりもしたのだけれど…。彼女はいつも「みんなの踊りがちっともそろってないので踊っていても楽しくない!」と言っていたので、私、いつも自分が責められているのかなぁと思って、びくびくしてたから。

でも、多少、「みんなで」にはなってきたんだけど、本番の舞台の上ではまだすごく孤独でした。

私はバレエって、舞台の上で踊っている人同士の間にコミュニケーションの見えない糸が張り詰めていて、そして一人一人の踊り手から観客へのコミュニケーションの糸が投げかけられていて、そういう複雑にからみあい引っ張り合う糸で織り成していくものだと思っているので、舞台の上で踊っている人同士の間に糸が張れない…という状態が「辛い」と感じるのです。

でも、この時、舞台の上で「一人」になったこと、ならざるを得なかったこと、というのは私のバレエにとって、とても大きなことだったと思います。よく「一人で生きていけない人が二人で生きていける訳がない」というけれど、バレエでコミュニケートしていく上で、徹底してこういう孤独を味わったこと…それが、私の第二の「原点」になっているかもしれないと思います。(>第一の「原点」はT先生の下で「バレエを好きになったこと」です)

それまで、T教室では、子ども達に助けられ(>助けられていることに気づきさえせずに)、子ども達を頼って(>頼っていることに気づきさえせずに)踊ってきまし
た。

でも、これからは、「対等な立場」の人と踊っていく、「同じ立場」の人と踊っていく…。そのためにはまず一度「一人になること」…それが必要だったのかもしれないです。

人と「つながって」踊るためには、一度「一人になること」が必要なのかもしれません。そこの位置から手を伸ばした時に、はじめてその手を掴んでくれる人が現われるのかもしれないです。