コンテンポラリーと私 (3)-車イスのダンサーたち

車イスのダンサーたちの踊りをTVで見る機会がありました。話に聞いたことはあったけれど、すごい!!!!

もちろんダンサーっていうのは「身体を使って表現する」人々だから、人並み優れて身体が優れているということは、とても大事でしょう。

私が大好きなコンテンポラリーのダンサーTさんも、「うゎっ!!!!」というくらい、すごい肉体を持っています。優れた身体を極限まで鍛え上げた、そういう肉体に、ただただ驚嘆する。そういう肉体は見ているだけで胸がすく思いがします。

で、障害を持った人たちも、たとえば脚に障害があっても、腕の力なんかがすごかったり(>だってものすごいアクロバティックなこともするんです。踊りにスピード感あるし)、その他の部分の身体機能が優れているっていうのはあるのかもしれない。

だけど、これらの障害を持った人々の踊りは、まさに「この人たちにしか踊れない踊り」なんだと思いました。

「障害は個性だ」というのは、キレイ事にすぎないかもしれない。今の日本の社会で障害を持って生きることは、決して生き易くはないでしょう。

でも、「健常者」にカテゴライズされる人々も、やはり苦しみながら生きており、自殺する人も後を絶ちません。

私の肉体も、沢山のハンディを負っています。

背が低い、腕が太い、腕が短い、身体がかたい、美人じゃない・・・・・。

でも、そういう「私」が踊る踊りがどこかにあるかも・・・・。そういう「私」だから踊れる踊りがどこかにあるかも・・・。

もちろん、そんな風な「私だけ」の踊りは、その「私」の身体を「私」の範囲で極限まで鍛え上げなければ踊れないのだとは思うけれど・・・。

私がコンテンポラリーに興味を持つのは、そんな踊りが踊れたらいいなぁ・・・と思うからです。

コンテンポラリーと私 (2)-従妹とコンテンポラリー

「大人のバレエ前史」にも書いたけれど、「大人のバレエ」が始まる前に、実は、小学校高学年とか中学生とか、昔は「バレエに始めるにはちょっと遅いんじゃ?」と日本においては信じられていた年齢からバレエを始める子たちが、「多少年齢遅く始めても別にいいんじゃ?」という環境を作って来てくれた、というのがあると思います。

私の従妹はそんな一人。

彼女は中学校で体操部に入り、その体操のために、ということでバレエを始めました。

「えー、中学生からでも大丈夫なのぉ?」とこれまたシロウトな発言をした私に、彼女がびたーっと開脚して見せてくれて、「遅く始めてもやってれば柔らかくなるのよ。あんなにかたかった私でもこんな風になったのよ」と言っていたのも、よぉっく記憶に残っています。

私はこの従妹とは仲が良くて、小さい頃は手紙のやり取りをよくしていたし、互いに書いた小説を送りあっていたり、夏休みなんかに互いの家に泊まりあう時は2人で合作で小説を書いたりしていました。

今、彼女は翻訳家&物書きとして生きていますが、私も一応、物書きのはしくれで(>といっても私の「物書き」はいわばバレエ教室の先生の「舞台」のようなもので「それだけでは食っていけない」というレベルですが)、小さい頃、物を書き合っていた、その経験が2人をこんな風にしたのかなぁと思ったりします。

で、この従妹、高校卒業後フランスに行き(>留学ではなく、とにかく「行ってしまった」という感じ)、その後日本に一時帰国して、今度はカナダに留学しました。で、フランスでバレエやらダンスやらを始めてたんですね。

私の方は私の方で別途バレエを始めており、お互いの生活が少し落ち着いて久しぶりに会ってフタを開けてみたら、実は2人ともバレエをやってた!ということが判明。「似たもの従姉妹」です。

で、彼女はバレエよりはコンテンポラリーの方に重きを置いていて、「コンテンポラリーの方がバレエより自由」っていうようなことを言っていて、私は、「ふーん」と思って、いずれ私も齧ってみるかなぁ・・・って思ったりしていました。

彼女は私よりはダンスの素質がずーっとあり(>努力もしたんでしょうが)、時々プロの公演にもちょい役で出たりしていました。

彼女の舞台を見に行った時、コンテンポラリーにはプロでも色々な体型の人がいるのを見て、バレエな身体ではない私でも、コンテンポラリーなら、「世界にひとつしかないこの私」の身体を生かした踊りっていうのがあるのかもなーと思ったりしました。

コンテンポラリーは、バレエよりもずっと激しく身体を使う面もあるのですが、なんていうか、その人の「個性」を生かすっていうか、そういうのもあって、バレエみたいに「踊りに身体を合わせる」というようなことをしなくてもすむ、というか・・・。

イギリスの子ども向けのバレエ雑誌(>『クララ』みたいなやつですが、イギリスではプロの世界がもっと確立しているので、子ども向けとは言え、かなり「プロ志向」です)の「読者の相談コーナー」みたいなところでも、「クラッシックは身体の条件がクラッシックに合致したほんの一握りの人しか出来ないけれど、踊りには他にもさまざまな分野がある。そういうところで自分を生かして行くことも出来ますよ」みたいなことが書いてあったりする。

色々な「限界だらけ」の私だけれど、「踊れない身体の私」だから踊れる踊りっていうか、コンテンポラリーの世界には、そういうのもアリかもなーって思いました。

コンテンポラリーと私 (1)-柔軟性アップ!は果たせず

私とコンテンポラリー(>モダン?)の出会いは、まだT教室に通っていた頃。

私はT教室においては「年上の末っ子」(>子どもに混ざってレッスンしてました)だったから、「大人のクラス」でバレエをやっているよりは、自分の身体がかたいことにコンプレックスを(そんなには)持たずにすんでいました。また、T先生も「みんな何年もかけて少しずつ柔らかくしてきているんだから焦らずにね」と声をかけてくださったというのもあり、マイペースでやってました。

でも、それにしても私ってかたい!!!というのはあり、これは、なんとかしないとなーと思ったりもしてました。「補講」のつもりで通いだしたカルチャーで、大人から始めても柔らかい人、柔らかくなった人を「目撃」した、というのもあるのかもしれません。

たまたま、大人になって「モダンを始めた」という人が身近にいて、当時はまだバレエを始めてなかったんですが、「えー、だってモダンって身体柔らかくないと出来ないんぢゃ? もともと身体柔らかかったの?」と、「大人でバレエを始めた」と言うとまず返ってくるような反応をしてしまいました。

で、その答えが「もともとはすっごくかたかったのよ。でも、やってるうちに柔らかくなってきたの。いや、大人になってからでも案外柔らかくなるものねぇ」とのこと。

うーむ、そうなのか! モダン=身体が柔らかくなる!!!!

その話を思い出し、同じカルチャーのモダンのクラスに申し込んでみました。仕事も忙しかったからサボりサボりでしたが、一期だけ通いました。

バレエと同じようにバーをやりますが、バレエほど長くはやりません。

たしかに床でのストレッチの時間は長いです。

入門のクラスだったので、フロアの踊りもグランジュッテの(>ってグランジュッテは難しいけど)の連続のみ、とか、そんな感じ。

フロアの時、音楽はドラムのみっていうのが多くて、私、これはすごく気に入ってましたが、「あぁ、モダンっていいな!!!」と感じるほどではなく(>そういうのが感じられるところまではやらなかったということかもしれないけれど)、やっぱりモダン1回やるんだったらバレエを1回やろう・・・という感じで、一期でやめてしまいました。

当初の目的の「身体を柔らかくする!」も結局果たせずじまい(>そこもけっこう柔らかい人が多くて「大丈夫よ。だんだん柔らかくなるわよ」とは励ましてもらったのですが)でした。結局のところ、「だんだん柔らかくなるわよ」という人は、実は「もとから柔らかくなる素質があった」ということと「地道に努力した」というののプラスの掛け合わせがあったのでしょう。

私は、「もともとかたい」というのと、だから成果が出にくく、「努力が苦になる」というのがあり、「努力の量が少ない」というマイナスの掛け合わせの状況があったということなんだと思います。

でも、その時、「ドラムで踊る」快感っていうのは、私の身体の奥深くに埋め込まれたみたい。

イギリスでゼレンスキーがダンスイベントを企画した中で、和太鼓(>実際はあれ和太鼓じゃないぞ!と思うのだが)で踊るというのをやりましたが、すごく良かった。

どこの国のお祭りでもそうだけれど、ドラムの刻むリズムは人を昂揚させ興奮させるよね。ドラムのリズムに合わせて踊る、というのは、だから太古からの人間の「踊る」本能をもっとも直接的に刺激するんだと思います。